佐敷町史編集委員会は、去る9月29日から10月4日にかけてパラオ調査を実施しました。沖縄パラオ会の慰霊団に同行し、移民の足跡を尋ねることが今回の調査の目的です。奇しくも戦後50年、津波古在住の高江洲順義さん(71才)がこの慰霊団に加わったおかげで、移民の人たちが戦争に巻き込まれた体験にも触れることができました。
南洋群島に日本人移民が送リ出された経緯については、広報10月号に記述したとおりです。パラオは無数にある南洋群島の中でも、当時の統治機関である「南洋庁」が置かれたこともあって、サトウキビ産業の中心地となったサイパンに次いで沖縄からの移民が多かったところです。
パラオといってもまた島の数が多く、その中のペリリュー島、アンガウル島はリン鉱採掘で知られていました。リン鉱の賃金は農業よりもはるかによかったそうです。
高江洲順義さんは先に移民していた父の呼び出しで、1939年(昭和14)頃、母やほかのきょうだいたちとパラオに渡りました。現地に着いて間もなく、コロール島の造船会社で船大工の修業を積みました。戦後ずっと船造りの仕事で生計をたててきたのは、その時の修業が役に立ったということです。
しかしやがて太平洋戦争が勃発すると、南洋群島の状況も厳しくなり、徴用に狩り出される日々が続きます。1944年7月、サイパン玉砕のあとパラオの老幼婦女子は「内地」に帰還するか、本島の未開の山奥に避難するかの選択を迫られました。
高江洲さんの家族はパラオ本島の奥地に疎開しました。父と高江洲さんは現地召集を受けました。疎開した家族は、幼い2人の妹が栄養失調になりかけながらも無事でした。が、ペリリュー島に行った父はそれっきり帰らぬ人となりました。
ペリリュー、アンガウル両島は玉砕で知られたところです。私たちはポンポン船で2時間ほどかけて、ペリリュー島の慰霊祭にも参加しました。島のいたるところに日米両軍の戦車が、その残骸をさらけだしたまま放置されています。
短い滞在期間でしたが、私たちは現地の人たちと交流する機会にも恵まれました。60代以上の現地の人たちとは、殆ど日本語で話すことができます。日本統治時代「公学校」と呼ばれた現地住民のための学校で、日本語教育が徹底して行なわれたからです。犠牲を強いられたのは、現地住民も同様でした。
さて、今回はかつての移民地の戦争について触れましたが、町史では12月中旬から、戦災実態調査を全字にわたって実施する予定です。調査員がお訪ねする時は、ご協力をお願いいたします。
町史担当 新垣安子
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大分類 | テキスト |
資料コード | 008448 |
内容コード | G000000672-0006 |
資料群 | 旧佐敷町(佐敷村)広報 |
資料グループ | 広報さしき 第221号(1995年12月) |
ページ | 5 |
年代区分 | 1990年代 |
キーワード | 広報 |
場所 | 佐敷 |
発行年月日 | 1995/12/10 |
公開日 | 2023/12/12 |