月日の経つのは早いもので、右も左も知らない私が、沖縄市からここ佐敷町に嫁いで17年になります。21歳で結婚を決意した時には心細い思いもしましたが、反面、近所に姉が嫁いでいたので心強くもありました。
現在5人の子どもに恵まれ、子育て真最中です。
結婚当初、豆腐作りをしている姑が、部落内を売り歩く姿も私にとっては、珍しい光景でした。近所の方々も親切に接してくれて、すぐに打ち解けることができ、気楽に話もできるようになりました。自家製の野菜も 「たくさんあるから食べて」 と分け合ったり、必要な物が足りなければ譲り合ったりと、結婚前とはまるで違う田舎ならではの生活感を味わうことができました。
こちらでの生活にもすっかり慣れ、伊原人 (イバランチュ) になりきった昭和61年のことです。私は、よもやと思っていた伊原の婦人会長に選ばれてしまったのです。長女は幼稚園、二女、三女は保育園でしたし、現役の舅、姑と同居という条件下では断ることもできず引き受けてしまいました。
当時、私は28歳。三女がまだ一歳半の時でした。その年は、海邦国体の前年です。リハーサル国体などの行事が、目白押しで連日家を開けることもありました。平日は子どもを保育園に預けているとはいえ、土曜日曜日の行事は数多くあるものです。豆腐作りの傍ら畑仕事もする姑に毎回子どもを託すこともできず、連れ歩くことも度々でした。しかし、夜ともなると子どもを連れ歩くわけにはいきません。幸い姑が理解を示してくれ 「子ども連れでは何もできないから置いていきなさい」 と快く預かってくれたのです。それでも、連日となると、家へ残してきた幼い子どもたちへの心残りや姑への気兼ねもあり辛い思いもしました。
家庭や子どもがあっての婦人会です。家族の理解や協力がなければ、役員を引き受けても満足にやっていけなかっただろうと思います。姑や夫に助けられて無事役員を終えた時、感謝の気持ちでいっぱいでした。
当時を振り返ってみますと、私にとって毎日が貴重な体験でした。多くのそれぞれ全く知らなかった人達との出会い、年齢の違い、価値観の違いを越えて、一つの目的に向かって共に歩む、そのことの素晴らしさを体験したような気がします。
そんな私に一つの試練が待っていました。婦人会の役員を終えてホッとした翌年のことです。私は、妊娠7か月にして950グラムの超未熟児の四女を出産したのです。娘は4か月も中部病院に入院し、私はその間母乳を持って毎日通いました。ようやく2600グラムまで育ち、一応退院はしたものの 「脳性麻痩の疑いがある」 と宣告を受けたのです。その時のショックは今でも忘れることができません。退院後はさらに沖縄市にある小児発達センターに通うことになりました。
不安と恐怖にさいなまれながら、1年間も通いつめた時のことです。「お母さん、この子は、普通の子どもと変わらず育ちます。麻痺も残らないと思いますしもう大丈夫ですよ。今日で訓練を終わりましょうね」 という先生の書葉に思わず涙が出てしまいました。
その1年前障害が残るかもしれないと主治医から告げられたとき、たとえ一瞬たりとはいえ 「残された家族を取るか、この子を取るか」 を考えた自分が恥ずかしくもあり、娘に申し訳ない気持ちでいっぱいでした。
四女が生まれてから1年と4か月。今にして思えば、私にとって10年にも匹敵する日々でした。その時のことが走馬灯のように駆け巡ります。その後も週1回の通院です。担当の先生が、段階ごとに娘の運動の方法を教えてくれます。家に帰れば、私がこの子のリハビリをしなければなりません。首を引っ張っても、手足を曲げても大声で泣くばかりです。途中、何度もやめてしまおうかと思ったことがありました。先生からは、体を動かしても泣かなくなるまで運動を続けなさいとの指示でしたので、頑張るしかありません。そんな私を支えてくれたのは、小さいながら日々変わっていく娘の表情でした。同じ運動を繰り返していくうちに、自分で、手足をばたばた動かし、訓練にもなれてきました。そのときには、娘の小さな手を取り夫婦で喜び合いました。月日が経つにつれ表情もよくなり、訓練の成果が表れはじめました。途中落ち込んだ時期もありましたが、いちばん大切なのはやはり家族のきずなだということをつくづく思いました。
そのころ、私に素晴らしい出会いがありました。重度障害の娘さんを持つ方なのですがとても明るく笑顔の素敵な方でした。
「この子に必要なのは家族の愛情なのよ。今頑張らなければ、きっと後悔しますよ」 と私たちのことを心配し、心から励ましてくれたのです。その言葉をいまでも忘れることができません。無事訓練を終えたとき、家族や励ましてくれた方々への感謝の気持ちで一杯でした。
人並みに育ってほしいと願いつづけてきた四女も早小学校の2年生になりました。身も心も人並みに成長し、毎日元気に走り廻っています。3年前には待望の長男も生まれました。元気に育っています。子どもたちが、元気に成長してくれるのが、私たちにとって何よりの生きがいです。
さて、娘のこともありどちらかといえば、家に閉じこもりがちな私だったのですが、子どもたちが成長するにつれ、PTAの活動にも参加をするようになりました。なかなかなり手のない学級の世話役も何度か引き受けました。そこで多くの方々と出会い、共に学ぶ機会を数多く持つことができました。また、婦人会の活動にもできるだけ参加をするようにしています。
婦人会活動、娘の看病、リハビリ、そしてPTA活動や現在娘たちが続けている 「照太鼓のグループ」 の保護者会。そこには、実に様々な方がそれぞれの考え方を持って一生懸命に生きています。私は、そうした皆さんと出会い、お付き合いする事によって、実に多くの事を学びました。
夫と出会い、新しい家族ができ、そこを中心として、次々と人の輪が広がっていきました。婦人会やPTAの活動を通して知り合った皆さん。娘の入院で知り合った病院の先生やリハビリの皆さん。娘たちが通う太鼓のサークルのお母さんたち。数え上げればきりがありませんが、私の人生は、実に多くの人々にお世話になり、励まされたり、支えられながら歩んできたように思います。
その経験から私は、私が受けてきたものを少しでもいいから、お返ししなければと思うようになりました。そのためには、私自身が母として、1人の女性としてもっともっと成長しなければならないと思います。
そして、いつかは、他人の私にさり気なく励ましの言葉をかけてくれたあの明るく素敵な女性のようになりたいと思います。
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大分類 | テキスト |
資料コード | 008448 |
内容コード | G000000670-0014 |
資料群 | 旧佐敷町(佐敷村)広報 |
資料グループ | 広報さしき 第219号(1995年10月) |
ページ | 10 |
年代区分 | 1990年代 |
キーワード | 広報 |
場所 | 佐敷 |
発行年月日 | 1995/10/10 |
公開日 | 2023/12/11 |