なんじょうデジタルアーカイブ Nanjo Digital Archives

町史の記録帳 戦争のはざまで―。町史ハワイ移民調査報告

ハワイの佐敷町民は知念村出身者と合同で、 「佐敷知念クラブ」 をつくっている。1947年の創立で、その頃は 「佐敷知念同志会」 と称していたという。現在、佐敷町の会員数は1世が2人、2世が92人である。
移民調査はまず、 1世の軌跡を追うことだと思うが、今となっては2世たちから聞き取りするよりはかないのである。果たして彼らからどれだけの話が聞けるのか、日本語は通じるか、じかに会うまでは不安が先にきた。
2世といっても殆どが70歳前後。最高年齢者は玉城寅吉さんと山内ツル子さんで、ともに86歳を数える。お2人が中学生になった頃の1924年、アメリカは排日移民法で日本人移民を全面的に禁止した。
歴史を思い出してみても、当時は世界的な恐怖からやがて戦争へと突入していく、激動の時代である。日本人でありながらアメリカ国籍を持つ、2世たちの苦労は、いかばばかりであったろう。
外間登さんは、伊原出身の外間長喜さん・ナビさんの2男として1922年11月に生まれた。両親は、はじめマウイ島でサトウキビ耕地にいたが、後にラナイ島に移りそこでリタイヤ (退職のことを、彼らはそう言う) するまで、ずっとパイナップル耕地で働いた。
真珠湾攻撃が始まった時、登さんは19歳であった。日本語学校の先生などは、アメリカ軍に連れていかれたが、一般市民が収容されることはなかった。間もなく日系腎部隊ができたので、登さんも志願した。442連隊でヨーロッパ戦線に派遣された。日系人680人の戦死者が出たという。
登さんはこの戦争で負傷した友人を助け、自らも負傷した人に贈られる銀星章と紫心章の、2つの勲章を受けた。 「親は悲しんだと思うが、私はアメリカ国民だから」 と、言葉少なに当時を振り返る。
両親は日本国籍のまま生涯を終えた。 1963年に故郷を訪問したが、水キキンの頃だったのか、沖縄には住めないと語っていたという。     (町史担当 新垣安子)

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大分類 テキスト
資料コード 008448
内容コード G000000667-0005
資料群 旧佐敷町(佐敷村)広報
資料グループ 広報さしき 第216号(1995年7月)
ページ 5
年代区分 1990年代
キーワード 広報
場所 佐敷
発行年月日 1995/07/10
公開日 2023/12/07