「一佐敷人として……」笑築過激団 津波信一
よく仕事先等で「どこの出身ですか?」とたずねられることがある。「佐敷人(サシキンチュ)です」と当たり前に答える。テレビやラジオ等でも機会があれば佐敷のことをロにしている。最近僕に「佐敷、佐敷ってあまり言わないで」とか「佐敷というと田舎者ってバカにされるから嫌で、言いたくない」等と言う佐敷人(サシキンチュ)がいる。
その言葉を聞くとすごく悲しくなる。僕も以前はそう思っていた時期があった。高校を出てコザに五年程住んでいた。コザが好きで好きでたまらなかった。しかしどうしてもコザ人(コザンチュ)にはなれないのである。何故だろう? 答えは簡単である。僕が佐敷人(サシキンチュ)だからだ。僕の師匠である玉城満は沖縄を愛す前に地元(コザ)を愛している。すごく素敵に見えた。
僕はどうなんだろうと問いかけるが、何も返ってこない。さみしいものだけが心に残った。自分の基本は何なんだろう?…。自分の基本は親であり、家族であり、友人であり、佐敷である。「佐敷人(サシキンチュ)を恥ずかしいと思っていたことがすごく恥ずかしい」と思った。
中国の孔子の言葉に「過って改めざる。これを過ちという」という言葉がある。至極名言だと思う。
自分のシマに誇りを持つということは見えないものかもしれない。
しかし見えないものが本当に見えなくなったら終りである。佐敷人(サシキンチュ)ひとりひとりに問いかけてみたい。
一佐敷人(サシキンチュ)として……。