演奏をしているときの音楽家は、身も心も半ば楽器のようになっています。それに本番ともなれば、相当な緊張感とそれをつきぬけるための集中力がいります。結果的にみなハイ・テンション、つまりフツウとはいえない精神状態になることが多いのです。そのせいでしょう、一見華やかな表舞台のコンサートでも、その裏ではさまざまに喜劇的悲劇的な椿事がおこります。
往年の名テノールに、藤原義江がいました。大変な美声と美貌の持ち主で、ステージだけでなく人生そのものも華やか。本番のときにおのが美声に酔うのでしょうか、しばしば歌詞を忘れたりまちがえたりすることがあります。そこで常にプロンプター…幕の陰やオーケストラ席から歌詞を投げかける役…をおいていたのですが、ある日のリサイタルのこと。例のごとく歌詞を忘れ途中から「ラララー」とごまかし歌いをやり始めた。
プロンプター氏、あわてて詞をささやいたら聞き違えてとんでもない歌詞で歌い出す。さらにあわてたプロンプター氏「センセ、センセちがってます」といったら先生はそのとうり「センセ、センセちがってまーす!」と、歌いつづけたとか。
日本の指揮界の大御所、山田一男もアツクなる人だったようです。指揮者が指揮棒を落とすのは時々あります。しかし山田さんはある日の演奏会で、本人が指揮台から客席に落っこちてしまった。楽団員は、あわてた。
演奏をつづけたものかどうか…。
と、件のマエストロ(山田巨匠)はなんら臆することなく、客席から指揮棒を振りながらステージに戻ったのだそうです。
歌詞を忘れる歌手、スリッパのままステージに出てしまったヴァイオリニスト、演奏曲目を勘違いしてオモイッキリ振りだしオーケストラを混乱させた指揮者。そうそう、客席にいる老婦人の目線がどうしても気になるから、あの人をどうにかしてくれ、といった世界的なピアニストもいましたね。その婦人、「あたしゃちゃんと料金払ってここに座ってるんだよ。動くなんていやなこった」で、開演が30分遅れたと、これはドイツでの話。
フツウでない神経から起きるさまざまな椿事。音楽家もまた、弱さをもったフツウの人間なのでしょうね。 (琉球大学教授)