正直のところ爆発の恐さよりも、驚きの方が大きかった。津波古の工事現場から日本軍の魚雷が続々と出て来たのには、多くの人がそう感じたにちがいないであろう。それにしても、去る4月には同所で米国製250キロ爆弾の不発弾が付近住民避難のもと処理されたばかりである。
ある新聞では、今回の魚奮発見を「爆弾を枕に県民は眠っているのと同じ」という表現を使って報道していた。8発もの大型魚雷の発見は、まさにその通りかもしれない。幸いというか爆発の危険性が高い弾頭部や信管がついてなく、無事撤去されたわけだが、慰霊の日を前にして、沖縄戦を思い出すのに十分な事件であった。
沖縄県内の不発弾は、現在の処理ぺースでいくと、後50年余りかかるとよくいわれる。いかにものすごい「鉄の暴風」が吹きあれたことであろうか。本町も戦時中は例外でなく、激しい砲爆撃を受けた。軍事施設のあった所だけでなく、山や野、住宅地、海辺、郷土のすべてが攻撃の対象となっていたといっても過言ではない。
撤去作業員が専門家の立場から、今回発見の魚雷の高価さをそれとなく語っていた。戦争は人的損害だけでなく、莫大な資源、エネルギーを無駄にする。腐食し、錆つき、穴のあいた大型魚雷を見て、人間のおろかさをあらためて感じた。しかし、そのおろかさを改めるのも私たち一人ひとりの責任であることも同時に思わされた。(収入役)