身近な間題から
佐敷中学校3年 大城 盛久
僕達の学校では、ボランティア活動が盛んです。月に1回程度、土曜日の午後を、町内の公園・各公共施設などの美化運動に当てます。その清掃に実際に参加してみると、普段はわからないゴミや空き缶、ときには「こんな物まで」と思うようなものが、沢山落ちていることに気付かされます。
又、学校の裏の海岸には、ドロの上にどこからか流されてきた色々なゴミが重なり、いやな匂いを出していることもあります。まるで海がゴミでうまってしまうのではないか、と思うほどです。
公園や海は、もともときれいな所であり、そうあることが本来の姿だと思います。それが現状は、残念ながらそうではありません。いったいなぜこういうことが起こっているのでしょう。
今一つの例をあげてみます。
夏の暑い日に、自動販売機でジュースを買います。飲み終えたあと、そばのクズかごへ投げ入れる。でも、それが100パーセント入るとは限らない。そこで、戻っていってもう一度入れ直すのが本当だと思うのだが、そんな場合、「面倒だ」ということで、そのまま立ち去ってしまう。これと似たような経験は、誰もが持っていると思います。特に他人の目が無い場合だと、よけいに「まあいいや」 「自分一人ぐらいなら」という気持ちが起こりやすいと思います。だからといって、そのままにしておけば、クズかごの周りはゴミだらけになってしまうでしょう。ほんのささいなことですが、なおさら一人ひとりが関心を持つべき問題だと思います。「少しぐらいは」という気持ちから、無責任な人間になっていくのです。
今、フロンガスの使用によるオゾン層の破壊、森林の伐採による大気温の上昇、酸性雨など、世界的な問題となっています。このような問題は、少なくとも自然現象だけではないでしょう。私たち入間の手で造りだしたものなのです。
もちろん、文化の発達とともに生活は便利になり、さらに向上させるための開発は必要です。しかし、あらかじめ計画的に、そしてアフターケアーも考えておかなければ、そういった開発はすぐ私たち自身に影響をおよぼします。まして、「少しぐらいは」「自分だけなら」という気持ちがあっては、どんどん生活環境が破壊されていきます。
私達日本人の生活には特に木を多く使い、狭い国土の中で合理的な対応が必要です。それを一歩間違えれば、日本特有の四季の変化やすばらしい自然を無くしてしまうことになりかねません。
では、どうすればそのような問題が解決できるのでしょうか。
私は、先に述べたように、一人ひとりが「少しくらいは」 「自分だけなら」という気持ちを捨てて、一つ一つの行動に責任を持つことが大切だと思います。缶の投げ捨てという身近な問題でも、みんなが真剣に考え、全体のこととしてとらえることによって、改善につながるのです。それは、世界的規模の問題でも同じです。もちろん規模が大きくなればなるほど、簡単にはいかないでしょう。でも、私達人類全体の問題としてみんなが考えれば、きっと解決の糸口はあるはずです。
スポーツの場合でも、初期の段階なら変なクセは直りやすい。同様にして、私達一人ひとりができることは、まず身近な問題に対処していくことです。どんな事でも、初めは小さなきっかけなのです。
僕は、地域の清掃活動をとおして、「ゴミはクズかごに」という基本的なことは、ぜひ守っていこうと感じました。そういう小さなことからでも、少しずつ始めたい。一歩一歩身近な問題から。
ボランティア活動
佐敷中学校3年 知念 芳美
今まで私は、ボランティア活動には、あまり興味はありませんでした。あんなことしたら自分の時問がもったいないだけだと思っていましたが、3年生になり、部活も終わったし、ということで何気なく参加したボランティア活動から、こんなに得るものが多いとは知りませんでした。
数日後、ボランティア活動として初めての行事「福祉まつり」の話を聞きました。その内容とは、精神薄弱者や障害者の人たちと、1日ゲームやダンスをしたリ舞台発表を楽しんだりと、私には、とても考えられないくらいめんどうな内容でした。
でも当日老人福祉センターに着いたとき、私はみんなにすまないという気持ちでいっぱいになりました。
なぜなら、この福祉まつりは、私たちだけではない、たくさんの人たちで動いているのです。本当にやる気になったのは、その時からでした。
まず障害者の人たちに会って、あらためて私を生んでくれた親に対する感謝と、体に不自由がないことが、どんなにすばらしいことかというのが、よくわかりました。今まではこの自分の体があたりまえだと思って、両親に対して、感謝の気持ちなど、まったくありませんでした。
心や体に障害を持ちながら、あんなに毎日を楽しそうに過ごしている。もし私がそのような境遇になっていたら、きっと自分だけの世界に閉じこもっていたと思います。そんな時、ボランティアの人たちが優しく接してくれたら、少しずつ心が開かれてくると思いました。
自分は健康なので、その人たちの気持ちは、本当にはわかりませんが、もし自分がそうだったら、ということを考えて、障害者の人たちと接しました。でも意外にむずかしいもので、体は大人で、心は子供、という人がたくさんいて、はっきりいって、私は、とまどいを感じました。
すると、私の心を見抜いたのか、障害者のおばさんが、私に握手を求めてきたのです。私は、すぐに優しく接してあげようと、そう思いました。でも、頭ではそう思っても、体が動いてくれません。どうしていいかわからなくなり、ぼう然としている私の手を笑顔で握ってくれたのです。その手は、あたたかくて、お母さんのような手でした。その瞬間、心の中のもやもやが少しふっとんでいったような気がしました。
私は、それをきっかけに、張り切って、すぐそばでやっていた輪投げゲームのあるところで、障害者の人たちと一緒にゲームを楽しみました。そして、すばらしいことを発見しました。投げた輪が入ったとき、子供のように大喜びする人や、手をふって喜ぶ人、いろいろな形でうれしさを表現する人がいました。
人間は、誰でも、喜怒哀楽という四つの表現を持っています。最近の人は、この四つの表現を表すことがへたということをテレビで聞いたことがあります。周りの目を気にして、自分が感じたことを素直に表現できないのです。それをむしろ、障害者の人たちが上手に表現できる、つまり、周りの目を意識したりせずに、素直に感情表現できるのです。私は、これは見習いたいことだなと、感心しました。
そうして、障害者と私たちボランティアの生徒とのゲームの時には、少しはずかしがっている人たちもいたけれど、私は、そんなことを思ったらあの人たちに失礼だと思い、自分なりに頑張ろうと思いました。すると、私たちボランティアの中学生を引率してくださった先生が、「なるべく負けるように」と耳元でそう指示しました。私は、こういうのもあの人たちにとっての親切というのか、と迷いました。このゲームは、結局負けました。でもゲームが終わって、障害者の人たちの満足そうな表情を見て、納得しました。その時私の心の中で、やっとあの人たちに対して優しくすることができた、ボランティアをやってよかったと強く感じました。
このボランティアを通して、わかったこと、得たことは、たくさんあります。それは、自分の体について知らなすぎたこと、それに、心や体の不自由な人たちの気持ちが、少しわかったような気がしたことです。
これからは、自分には関係のない話だとは思わないで、自分のことと同じように、ボランティア活動と接していきたいと思います。