Aさんが旅行で慶良間諸島の座間味村を訪れた。
ここは何という部落だろうかと通りかかったお年寄りに聞いてみた。「クマー マーヤビーガ」と尋ねたら「クマー アマ ヤサ」という。「アマー マー ヤビーガ」と聞いたら「アマー クマヤサ」という。
「ここは何故ですか?」と聞いたら「ここは、あちらです」といい、「あちらは何故ですか?」と聞いたら「あちらは、ここです」との答え。Aさんはからかわれていると思ったが、話を聞いて納得した。「クマー アマ ヤサ」と答えたのは、実は《ここはあちらだよ》ではなくて《ここは阿真という所だよ》ということであり、「アマークマ ヤサ」といったのは《あちらは、ここだよ》ではなく、《阿真は、ここだよ》ということだったのである。
敗戦直後の石川市は、各地から集まった人々で賑わっていたが、スージ小(路地)が多くてわかりにくかった。知人を訪ねて石川に行ったAさんは、「クマー ヌー通り ヤイビーガ?」と尋ねたところ「ヌー 通リ ヤイビーン」という。俺を馬鹿にしているなと思ったAさんは、 「クマー ヌー 通リ ガ」と声も荒々しく詰め寄った。「アンスクトゥル
ヌー通リ ンディ 言チョウルムヌ」。
当時、石川ではスージ小をわかり易くするため、「イ通り」「ロ通り」と順番に「ル通リ」まで通りに名前がつけてあったのだ。
たまたまAさんが尋ねた通りが「ヌ通リ」であったため、このようなトンチンカンな問答になったのである。 (前)