津波古 志村政子
沖縄県婦人連合会は、今年で設立四十周年を迎え、その記念事業の一環として中国友好親善訪問を実施した。訪問団一行221名は、6月13日から20日までの日程で中国各地を訪問。
今回の訪問目的は、中国婦人団体との親善交流、教育・文化、福祉施設などの視察を通して沖縄と中国の歴史的な関係を学び、国際的な視野を広めようというものであった。
6月13日午前6時半、安謝新港に集合し中国友好親善の船「さんふらわあ号」に乗船。見送りの人たちと五色のテープを引き合って、ドラの音とともに出港、「行って来ます」と未知の世界中国へと出発した。船上では、結団式、オリエンテーション、避難訓練等が行なわれた。
中国に関する勉強会も開かれ、沖縄県立図書館主幹の糸数兼治先生は 「中国の歴史と沖縄の関わり」について、進貢船を中心に講義。 1372年頃から中国と沖縄の交流が正式に始まり、以降500年間も続いたことや、当時の海上交通の困難をきわめていたがその困難を乗り越え帆船で命がけで航海し、中国皇帝へ貢物を持って福州へ進貢船は通ったということなどについて学ばれた。
講話を聞き、私たちの祖先の偉大さに心打たれ、また、未知の中国への思いは次第に大きく広がった。
6月14日、出港より24時間後の午前7時、船は目的地の福州馬尾港へ入港した。入域手続後、12時、下船。
港には「熱烈歓迎」の横断幕が掲げられ、福州市婦人連合会の歓迎を受けた。小学生の
ブラスバンドに迎えられ、憧れの中国への第一歩を印した。
通路の両側には住民の群、一見労働者風にも見えたが、手に手に古ぼけた裸のままの弁当箱を持っている人が多く見受けられた。親しみ深く笑いかけた人があったので、「写真を撮っていいですか」とカメラを構えたら「いい」とのことで、シャッターを切った。この時の情景は、一フィートの映像の中に映し出された戦後の沖縄を見る思いがして、一抹のわびしささえ感じた。
最初の研修地福州は農村で、車窓より見る情景は昔の沖縄をイメージできるものであった。畑にはウンチェー、ナーべーラー等が植付てあり農耕する人々の姿にも昔沖縄を感じた。天びんをかつぎ、クワを振り、クバ笠をかぶっている姿をあちこちに見かけた。家の構造、亀甲型のお墓を見た時は、「沖縄のルーツ、中国にあり」を実感した。
農家の暮らし向きは貧しく映ったが、以前と違い、最近は国に納める分はいくらと決められていて、残りは全部自分のものになるとあって農家も一生懸命頑張るようになり「万元戸」が増え、自分の家を建てる人も増えたとのことであった。ちなみに、一元は日本円の35円位であるので、一万元は35万円程度となる。中国では、一般の人々の平均賃金は100元から150元位というから、日本円でいえば約5千円前後である。
生活水準は日本に比べると低いし物不足のためかすぐ品切れとなったりしていた。
中国でうらやましいと思ったのが“肥満の人がいない”ということであった。8日間の日程の内のまる5日間は中国を歩きまわったことになるが、その間、一人の肥満の人にも出会わなかった。不思議に思って尋ねたが、「ウーロン茶を飲み、自転車に乗っているからだろう」とのことであった。しかし、それだけではないような気もした。
また、中国では目下のところ人口問題が深刻のようである。国策により子供は一人しか認められてなく、二人目を出産すると罰金を取られ、生まれた子の生活・教育、一切の面倒を国はみてくれない。親の負担は大きく、そのため一人しか子供をつくらないそうである。
日程の中で学校見学があったが、訪問した小学校は女性校長で、気さくで明るくどこにでもいる“おばさん”を思わせる好感の持てる校長であった。その校長先生の話や、会議室に飾られてあった数々の賞状などから、教育に真剣に打ち込んでいる学校であることを強く感じた。
日本とも姉妹校を結び成績の交換なども行なっていると話す女性リーダーの目は生き生きと輝いていた。 生徒は一人っ子が多く、子供は大切にあつかわれ、教育にも熱意があって、収入の半分は子供の教育にかけているとの話も聞いた。 つづく