昭和の初期、いまを去ること50余年前の昔。10年ひとむかしからいうと、「昔、むかし、そのムカシ、もひとつ昔のまた昔」ということになるか。
古い話になるが、昭和8年は私が役場の臨時傭いをしていたころのことである。
役場では勤務時間が終わっても誰1人帰る者はいない。いわんや「帰るコール」などは考えられず一直線に家路を急ぐ者はなく、時を稼いで摂場の宿直室でたむろしているのが常であった。明かるい内から泡盛を前にして、四方山話に花を咲かせ隣近所のひんしゅくをかっていた。
言い訳が振るっていて、「農家は1日中働いて晩には胴骨(ルーブニ)直しで酒が出る。お互いは一日中頭脳を使っているので、頭骨(チブルブニ)なおし」だというのである。
たまには先輩の相手もしろと、未成年の私にも酒をすすめ、いろいろなことを話しかけてくる。琉歌を口三味線にのせ、歌意の教授もしてくれるのである。
「先年と変わて恩納村はづれ、道はされ末の並だる清ゆらさ」という恩納節の歌意の解説は、若かったせいか特に印象に残っている。
なんともこの解説によると、恩納は女性そのものをさしているというのである。女性の成長を歌っているとの説であった。
このご仁、即興の替え歌や狂歌風刺歌、ザレ唄の名手。毒にもならなければ薬にもならない話題の多い、愉快な先輩であった。
先人の古典歌を冒トクするっもりは毛頭ないが、恩納節を艶歌だとする説、くわしく知りたいとおっしゃる方は筆者まで。 (由良武美)