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まちづくり100日シンポジウムより⑥ イキイキ自然夢ある街を「自治体独自の視点の確立を」

上原俊 町青年連合会・代表
理想郷・佐敷町をつくるため、「さしき」の3文字をもとに「さかえるまち しぜんのまち きぼうのまち」をキャッチフレーズにして、町行政側は「まちづくり100日シンポジウム」や、多くの行事、事業に取組んでいます。
私は、学生から社会人となり、生まれ育った佐敷町から離れた所に職場を持って、自らの目で客観的にふるさとが見えるようになりました。また、多くの人と接し「佐敷町は聞いたことがあるが、どこにあるのかは知らない」という人が数多くいることにも気がつきました。
私は、佐敷町がどこなのかを知ってもらうために、馬天港、新開テラス、新里坂上からの町域、そして、中城湾の眺めを説明し、最後に、国道331号のワシントンヤシ並木をあげます。反応は「なるほど、そこが佐敷町なのか。南部をドライブするときは、景色がいいからいつもそこを通る」というパターンです。
つまり、わが町は、屏風のような山、サトウキビ畑、ヤシ並木の緑、そして、これから発展しようとしている中城湾の一角としての馬天港、県都那覇市のベッドタウンとしての「さかえるまち」のイメージがあるわけです。
私たちは、このイメージを大事に育てながら、さらに、佐敷町を新たな角度から見つめ直し、良きまちづくりの努力をしなければならないのではないでしょうか。
どこの町にも、いろいろな顔があります。 「まちから離れた人の郷里としての町」 「住民である人の生活の町」 「そこで仕事をしている人の産業の町」 「他市町村からみたわが町」とありますが、どの顔も無視し、置きざりにすることはできません。
このいろいろな顔を、いかにバランス良く伸ばし、大切にすることが「まちづくり」の良し悪しのポイントになると思います。
沖縄のまちは、戦争の荒廃から立ち直り、すばらしいまちを復活させることができたといわれますそれは、沖縄県民のたくましさとして象徴されますが、大部分は行政の力にあったと思います。
しかし、見事に復活したといわれるまちも、自然と調和し美しい景観を呈していた屋敷囲いの石垣や赤瓦ぶきの民家の町並みを失ないました。石垣はブロック塀に変わり、赤瓦の屋根はコンクリートの無表情な箱に化けてしまいました。そこには、復興を急ぐあまり機能性や経済性だけが最優先となり、長期的な展望に立ったまちづくりを指導できなかった行政の立ちおくれがみられます。
市町村行政の各部門は、タテ割に国や県の部門に強くつながりすぎ、1つの問題が生じると、自治体内部で討議するよりも先に中央に伺いを出す方式が多くなっています。上と下が直結し問題の処理が早くなることは事実ですが、しかし、そこには行政内部でのヨコの関係が生まれにくく、自治体独自の行政や「まちづくり」ができない危険性が多分にあります。
(つづく)

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大分類 テキスト
資料コード 008439
内容コード G000000539-0018
資料群 旧佐敷町(佐敷村)広報
資料グループ 広報さしき 第113号(1987年1月)
ページ 11
年代区分 1980年代
キーワード 広報
場所 佐敷
発行年月日 1987/01/10
公開日 2023/11/17