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町婦人まつり華やかに  演芸の部優勝は字佐敷支部

7月13日午後1時から佐敷小学校体育館において、第14回佐敷町婦人まつりが開催されました。
同まつりでは、町婦人の主張大会も同時に行なわれ南部地区大会への出場権をかけて「主張」がなされました。本年は、主張大会への出場が2人と少なかったのですが、2人とも内容のある主張を発表していました。厳正な審査の結果、「心身障害者と共に生きる人と接して」と題し発表した渡名喜一子さん(伊原)が優秀賞に選ばれました。
演芸の部では、町内各支部が日ごろの練習ぶりを発表するとあって盛り上がりをみせ、華やいだ雰囲気の会場となっていました。婦人まつりを彩る演芸の部でも審査が行なわれ、その結果、第一位には「あやぐ」を被露した字佐敷支部が選ばれていました。
婦人会活動の強化と、日ごろの取組みを総点検する日ともいえる婦人まつりは、町教育委員会とタイアップして行なわれていますが例年、新しい人たちの活躍が目立っており、今後もさらに盛り上がるものと思われます。
なお、町婦人の主張大会優秀賞の渡名喜一子さんは、南部地区大会でも最優秀賞を受賞し、8月10日に行なわれる県大会にも出場することになりました(4頁に、全文掲載いたしました)。

第14回佐敷時婦人の主張大会 優秀作品
心身障害者と共に生きる人と接して 佐敷町婦人連合会伊原支部 渡名喜 一子
〇本作品は、南部地区大会においても 最優秀賞を獲得しました。

人は誰も、自分が親になることがわかった途端、まず最初に五体満足な子どもが生まれることを願います。子どもが生まれ、異常がないことを確認すると、次は顔形などで一喜一憂します。「這えば立て、立てば歩めの親心」という言葉どおり、親の欲望は留まることを知りません。
しかし、この世には、親も子も決してそのつもりでなかったはずなのに、生まれてみると、身心のどこかに不自由なところが生じてしまったという子がいることは、承知のとおりです。
実際、私の近所にも重度の心身障害老を抱える家庭があります。脳性小児マヒで25歳になる現在でも、精神年齢は1歳以前のままです。歩くことこそできませんが、座ったままで巧みに体を移動させます。親の目の届かないときは、家にある物を引っぱり出し散らかします。1日に何度となくケイレンを起こすので、片時も目を離せません。
体は両親よりもすでに大きく、毎日の入浴だけでも重労働です。この親子が暮らしてきた25年間、皆さん想像できますでしょうか。彼の名前はT君。これからT君とその家族を、私の目と耳で触れた範囲で紹介してみたいと思います。
T君は長男です。生まれた時には目に見える異常はありませんでした。目鼻立ちも整っており、両親はもとより周囲の人々の喜びはひとしおでした。しかし、生後間もなく微熱が出始め、両親を不安に陥れました。
T君の病院巡りが始まったのです。ただの風邪だということで下熱剤だけを与えられました。沖縄の本土復帰前で、保険制度や医療制度が不備な時代でしたから、月収が2、3日の検査で消えていくということもあり、経済的な負担も大へんなものでした。
2歳になってようやく診断は下されたのですが、治る見込みのない病気で、症状を抑えるだけの薬を毎日服用させることになったのです。それでも両親は、後に生まれた弟妹たちの成長を支えに一生懸命T君の看護を続けました。
しかし、家庭内の看護には限界があります。年齢を重ねていく両親が、体だけは日々成長していく息子を看護するのは、容易なことではなかったでしょう。T君が10歳を過ぎた頃に、施設への入所を希望しました。それから8年後、ようやく受け入れてくれるという施設が新設され、T君は収容されることになりました。
ところが、T君は、8年間の自宅待機の末ようやく入所を許された施設から、わずか1月足らずで見放されてしまったのです。その理由は、18歳にして初めて家庭のぬくもりの外に出されたT君の情緒不安定による不適応でした。
枕を噛み切ったり、シーツを破いたり、ベッドを壊したり、部屋を水浸しにしたり、それは言語を絶するものであったといいます。
家に帰されたときのT君の姿は惨たんたるものでした。8キロも体重を減らし、頭はコブだらけでした。日に幾度となく繰り返されるケイレンの際、人手が足りず放置されていたのでしょう。そのたびに頭をぶつけコブを増やしていったのです。
帰宅してからの1月間は、家族にとってこの25年間で最も苦悩の深い時期となったのです。極度の緊張から解放されたときにやってくる発作が起こり、彼は暴れまわりました。家中のカーテンが破られ、テレビも壊されました。
私たちがT君の近所に転居したのは、ちょうどその頃です。私は大へんショッキングな光景を目撃したのです。5歳と3歳の私の息子たちが、近隣に響きわたる奇声を発するT君の家に石を投げ「馬鹿!! 馬鹿!!」とはやしたてているのです。
私はすぐに2人を連れ帰り、涙を浮べながら諭しました。「世の中には体の不自由な人がたくさんいること。そういう人を決して蔑んではならないこと。誰とでも助け合って仲良く生きて欲しいということ」を。
幼な心にも私の真剣な様子を理解したのでしょう。二度とそういう態度をとることはなく、ときにはT君に対して思いやりさえ見せてくれるようになりました。
T君が施設から戻されて7年が経ちました。相変わらずケイレン止めの薬を毎日服用し、病状は安定しているかのように見えます。
それでも軽いケイレンを繰り返すので、片時も目を離せません。
施設から帰される際、園長先生の話された言葉は、「T君を収容できる施設ができるまで、お母さん大へんでしょうが頑張ってください」ということでした。お母さんはその言葉を信じ、看護を続けています。そして、施設の中でT君や同じ状態の子どもたちの世話をしている自分の姿を夢見るのです。
「何人も法の下に平等である」
という名文が日本国憲法にあります。T君を見ていると、果して全ての国民が平等に扱われているのか疑問に思えます。確かにいろいろな福祉制度はあります。しかしながら、心が伴わず、見せかけだけに終ってはないでしょうか。また、全て予算がないという常套文句で片付けられてしまっているように思えてなりません。実際には日本に駐留する米軍を維持するために莫大な予算が使われています。
T君のような人々を救うには、その0・何パーセントかの予算と、優しい心があれば充分なのです。
私も歳の近い5人の子を抱え、育児に疲れ、挫けそうになるときが何度もありました。そうした私の支えは、T君の両親の姿でした。
悲しみ、苦しみを表に出さず、常に前向きに明るく生きようと努力する姿にはうたれます。「障害者の親には後光がさしている」と表現した人がいましたが、T君の両親は、まさしくその通りです。
障害を持つ子の将来を悲観し、道連れに死を選ぶ人もいます。頼りになるべき法律や制度が充分整備されてない現在、その人たちを人生の落伍者だと決めつけ、責めることはできないでしょう。
私もT君の近所に移り住み、親しく接してみて初めて事態の深刻さを知りました。私は、T君親子と同じ境遇にある人たちが、安心して暮らせるような制度や施設が1日も早く整備されることを強く望みます。
私がT君親子の心情と体験をどこまで共有できるでしょうか。ほとんど不可能に近いというべきでしょう。しかし、この親子を紹介する資格の有無について深く考えることもなく、私がこの壇上に立っているのは、一人でも、二人でも、私の拙い話で、T君親子と同じ境遇にある人々に関心を持つ人が増えることを願えばこそなのです。改めて、T君のお母さんの夢を、夢で終わらせてはならないと思うきょうこのごろです。

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大分類 テキスト
資料コード 008439
内容コード G000000533-0005
資料群 旧佐敷町(佐敷村)広報
資料グループ 広報さしき 第108号(1986年8月)
ページ 3-5
年代区分 1980年代
キーワード 広報
場所 佐敷
発行年月日 1986/08/10
公開日 2023/11/17