古代から作り続けられて来た本町の稲作は、呉屋新太郎さんの田圃で昭和51年二期作をもって終止符が打たれている。
稲作も無いのに今更という感がしないでもないが、生命の根源である主食であり、日常の言語・風俗・民俗・節句・琉歌等等、稲作とかかわることが多く1つの記録として書いておくのも無駄ではなかろうと思い敢えてとり上げることにした。本稿では主に農業面から見た稲作を述べることにする。
琉球王国のころから明治前期までは上納米として主作物であり、水田は百町歩を越していたのではあるまいか。甘蔗に押されて減少したが、昭和35ごろまで五十五町歩ほど作付されていた。その後、農政の転換と二度の大早魃や加州米の輸入により、稲作は絶滅して田無し村となり、今日に至っている。
ちなみに、在来種以来作付された主なる品種名は、明治・大正期の羽地・名護両穂赤・羽地黒穂・香米をはじめ、糯の白ひげ・赤ひげがあり、昭和5年に台中六十五号が導入され糯四十六号と共に急速に普及した。同9年、国頭一号が育成され、戦後に高白糯・ゴマシラズ・ナゴマサリが入り、更に藤坂五号やトヨニシキが導入されたが、もはや忘れ去られようとしている。
今後、ハイプリッドライスやバイオテクノロジーにより優良な陸稲なども作りだされるであろう。東洋民族にとって稲は重要な作目である。
一期田にふぐり縮めつ苗とりし
夏至南風黄金波打つ田の恋し
青甘蔗白亜増えゆく田無し村
御穂田の二期穂まばらに垂れ居しが
稲の発祥に関係の深いとされている霊泉「受水走水」へは、毎年参拝している。稲を見ると不思議に心が安らぐものだ。(畦 呂人)