字新里場天原の高台に、尚巴志王の祖父(一説には実父)にあたる鮫川大主の住居跡(場天殿)と、すぐその西側に「ヤマトバンタ」という所があった。
この辺は樹本が生い茂って断崖になっていたが、昭和34年の地巡りで、跡形もなくなり甘蔗畑と化した。両方とも鮫川の子孫の排所で、毎年旧5月15日と旧6月15日の御祭、旧8月10日の伊平屋神には場天殿を、また、旧8月10日にはヤマトバンタも併せて拝むが、伊平屋とヤマトの方角にも手を合わせているようだ。
蒲葵の花神の遊びの庭ひろく
昔、薩摩藩から琉球国に対し、良い人をよこすようにとの達しがあり、聞得大君と場天ノロが派遣された。藩主は場天ノロの美貌に心を奪われ妾にしようとしたが、場天ノロは頑強にそれを拒んだ。そこで、場天の人達が迎えに行って2人を連れ戻してきた所が、ヤマトバンタであったという。その際、スルル小(グヮー)(キビナコ)が2人を慕って大群でお供をしてきたという。以来、場天浜にはスルルがよく押し寄せてくるようになったとの伝説もある。
また、一説には、聞得大君が久高島祭礼の際、海を渡ろうとして逆凡にあい薩摩に潭着したところを、場天の人達がヤマトバンタに連れ戻してきたとある。なお、古老の話によれば、大昔は場天原の近くまで海浜が迫っていたとの言い伝えがあるようだ。
何はともあれ、歴史的に重要な意味を持つ「地名」の上で、場天と馬天どちらが正しいのか。なぜ馬天なのか疑問とされている。
ちなみに、場天の由来は「尊い方が住んでおられた聖地=天にそびえる場所」ということで、場天原と呼ばれたのではないかとする説もあるが、ご存知の方は御教示をいただきたい。
青甘蔗や拝所に巫女(ゆた)の声とおる (山城青尚)