去る沖縄戦で捕虜となり、当時の久志村字大川に移動させられたときのことである。
私が大川市の庶務課長で、市長は村の大先輩の玉城敬丞氏であった。玉城氏は、30歳のころ知念村久高小学校の校長をやめて、那覇で銀行員を経て、県議会議員をつとめられた方である。
戦時中は、国策の食糧営団の理事長なども歴任され、県下に名の知れた方であった。
銀行員、県議会議員時代は、和服に白タビで辻遊廊に通い、辻でも顔の通った粋人である。
大川市役所で、つれづれなるままに紙きれに琉歌の狂歌を書かれることがあった。ほほえみながらそっと私に渡してくださったのが次の艶歌である。「木草うちかんて 古墓るやしが 中に入りば玉の裏座」
また、供曰く「お供はじけたる事や無んあしが いちん御門口に待ちゅるちらさ」。主人曰く「くまや裸なて汗はてるうゆる 肉の狭さしや知らにしんた」。
狂歌、艶歌もここまでくれば極限である。恥も外聞もあったものではない。吹き出して微笑がとまらない。
ここまで書いたのだから、ついでにもう一首。
「ムムのたんなかや 拝所がやゆら 片目坊主前小が出か入か」。
人間、みな横5センチ、タテ10センチの穴(実測したことはないが)から出た。以上の歌は、いずれも私たちの生まれ故郷を誰れか想わざると賛美した歌だと思う。
読者諸賢各自の解釈で「くしゅっきい」のお茶請けにしていただきたいと思う。(信夫翁)