話題あれこれ
▽毎年行なわれるミス2世コンテストに沖縄系2世が選ばれたというので県人は鼻高々だった。何でも褒美に日本旅行があるらしい。
▽サンパウローテレビの娯楽担当人気女性アナは県人2世の奥原さんといい、その番組は皆よろこんで見ていた。
▽白人、黒人、混血、日系人など家普請の基礎打ちやスラブ打ちなど日曜、祭日を利用してユイマールーをしているのには感心した。
▽土地代。聖市効外で宅地は高騰しており、一方、奥地では、1ha当り25000Cr$という信じられないほどの安さらしい。もっとも奥地では原始生活を覚悟せねばならないらしい。
▽家屋は、30坪位の2階建ては約8000ドル、工期1年で建てられる。但し電気設備は部品の生産が間に合わず2年位かかるらしい。
生活に不可決の分は間に合わす。
▽豊見城村賀数のご出身らしいが沖縄そばを焼きそば風にして大皿に盛る食堂があった。2階は大衆食堂、1階は宴会場で土曜、日曜は大繁昌とのこと。白人、黒人もたくさん家族づれで夕食を楽しんでいた。1階では宴会があるらしく三味線をひいて賑っていて、ここもウチナーグチで通用する気軽に利用できる社交場であった。
▽北マットグロッソ州、アンデスの麓にワニや錦蛇の棲む大湿原で砂金が発見されて大ブームの報道だった。権利金やユンボの借賃など入れて1日500グラム採れば成立つとのことで、日本人も多数目を血走らして入植しているらしい。
外にも金鉱のラッシュで兄弟で3キログラム余の金塊を掘り当てで一夜にして億万長者になったとの報道もあった。
▽毒蛇研究所が州立大学の近くにあり、ガラガラ蛇の血清を製造している。コブラや毒ぐも、サソリ等も研究されていた。展示室に沖縄のハブもおり、毒の強さは有名だなあと変に感心した。だが展示されているのは別種のようだった。
衛研あたりから毎年一匹位寄贈したらどうだろう。
▽農家も商人も少ない家で1、2名、多い家は12、3名現地人を雇い、手広く商売や野菜作りを営んでいる。感心を通り越して羨望の念を抱いたものだ。
沖縄で、メイドやガードナーといって米人家庭に雇われている現実を見ている目には実に奇異にうつるものだ。それに、主より大きい、白人や混血、黒人を使いこなす様はみごとであった。県人の気骨の程を思い知らされた。
現地人も日系人に雇われるのを好むらしい。というのは、東洋系の主人は人間扱いしてくれるが、ヨーロッパ系の人は、奴隷を使った歴史があって人間扱いしないという。したがって給料は少々安くても日系人の所には喜んで雇われるらしい。
日系人や東洋系は、彼等の好む食事を与えてやるが、ヨーロッパ系の人は残り物しか与えなく、食事も立喰いか、外でさせるらしい。
どの国の人間も、人間らしく扱われれば好感を抱くのであろう。農家などでは、彼等の好むフェジョアーラ、豆の汁を与えなければ翌日は欠勤するらしい。
それにつけても、米軍の沖縄における傍若無人の行為などもっての外だ。
▽コーヒーは、世界一の生産と輸出を誇る国だけあって、砂糖と共にふんだんに消費されている。独特の小さいカップで飲むが、その香りの高さと濃さに初めは舌も喉もひん曲るのではと思われた。殆んど挽きコーヒーで、安価であった。街の到る処にコーヒーショップがあり、軽食や酒類、ミネラルウォーターなども売っていて気軽に利用していた。レストランと共に休日なしの年中営業であった。
▽多民族社会である上に、護身用の武器は届け出さえすれば誰でも持てるという国であり、したがって戸締りは極めて厳重であった。
アパートならドアに覗き窓、そして二重鍵。一軒建ての家では門扉もドアも鍵があり、家族みんなが合鍵を腰にぶら下げていた。鍵を忘れたら中から開けてくれない限り家には入れない。
その点、武器のない沖縄はほんとうに安住の地とつくづく思い直した。尚真王の英断をありがたいことと感謝する。
▽郷友会は、沖縄協会の下部組織として結成され、親睦と相互扶助の固い絆で結ばれている。年1回総会を開き、健在を確め合い慰安の場としている。また、地元からの訪伯客があれば、母村から贈られた郷友会旗を掲げ歓迎会を催し旧交を温め、いろいろの情報を交換して楽しんでいた。島ことば丸出しで極めて和やかである。
私の場合も歓迎会をしていただき、その上に饅別までももらってしまった。「遊びで来たのですから」と固辞したが、ポケットに捻じ込まれた。5、60名ともなるとすくなからぬ額、お返しもままならず荷物の制限を恨めしく思った。伯国には昔の良き沖縄が息づいていてホロリとさせられた。
帰国
いよいよ別れの日がやって来た。
幸い日曜日に当り、朝から親類縁者が押しかけて、手紙や手土産を頼まれた。帰国荷もまたカバン一杯になってしまった。
出発は真夜中だが飛行場まで多くの親戚がつめかけて、生涯の別れのように塔乗ぎりぎりまで見送ってくれ感激のし通しであった。
早朝マイアミ着、ロス経由成田まで昼ばかり、ついに一睡もせずに成田着。東京在の息子に迎えられて、六分咲きの桜を観、長途の疲れを癒してから帰沖、訪伯を締めくくる。
風と来て風と去る日の紫雲木 ピンカ酌み一、二、三世島言葉
〈1983年6月12日記す〉 (了)