大山町の一村一品運動は、年輩の猛反対もあったが、青年層を中心に進められました。
昭和41年には、所得倍増運動のおかげで第一陣のハワイ旅行団を送り出したのです。現在までにこの旅行は26回も実施されています。
第一段階の目的を達した運動は、第二段階の「人づくり」運動に入りました。「すべての住民が運命共同体の構成員を自覚し、健康で明るい豊かな心を持って生活を営むことのできる教養と知識、人格を養うことを目的とする」を合言葉に、若者の海外派遣や町民同士の出会いの場をつくるための各種行事を実施したのです。
これは、同町が山村であり、また、集落が散在していることから共同作業の必要性を訴えるためのものです。共同作業の精神の育成につとめたわけです。
海外派遣は、最初町予算でイスラエルのメギドのキブツヘ。協業体制作業の体験学習に3人を派遣しました。以降、この3人がリーダーとなり「世界を知ろう会」を結成して、イスラエル派遣を今日も続けているのです。すでに46人もがキブツで相互扶助、協業の重要性を学んできています。
「世界を知ろう会」のメンバーを中心にして、大山町では、農産物の加工に取組みました。梅や栗を中心に二次加工を開始し特産物の創出をついに実現したのです。原料はすべて規格外のものを利用し、梅ジャム、梅干し、梅蜜、梅のエキスを利用した飲料水など、15品目の加工生産をはじめました。
工場で働く人はすべて大山町民。町はいよいよ活気づいていったのです。
さらに、大山町ではエノキ茸の栽培に取組みました。町内の篤農家が自然の天候に左右されない作物を、という実験をしていました。この実験結果に基づいたエノキ茸の導入だったので同年、平均化した月収をおさめる農業体系をつくり、しかも、新しい労働の価値観と相互扶助、協業の重要性、農村工業のあり方を明確に実証したのです。
町民の意欲が、次から次へと新しい取組みとなっていき、将来への展望のある農村、農業づくりとなっていったのです。 (つづく)