人の出会いというのは不思議なものです。本土生まれの本土育ちの私が、右も左も分らぬまま、今日まで過して参りました。
思い返せば十余年前、特定疾患で大動脈炎症候群という難病を患っていた私は、両足は包帯で包まれ、足の指先が腐りはじめるという状態で、華やかなはずの青春時代を身なりをかまう余裕さえなく、明けても暮れても苦痛との戦いのみでした。美しく着飾り青春を楽しむ同級生を見ると、無性にうらやましく、精神的にも肉体的にも、みじめな思いで意固地になっていました。
そんなある日、暖かい沖縄で信仰心の深い主人にめぐり会いました。勿論、そんな私でしたから周囲の反対は、想像以上のものでした。が、おかげさまで第二の人生が始まりました。
結婚もし、次は持病を治すことと、歩み始めました。でもどんな環境に恵まれても、原因不明の病は足の指から、血やウミが出て、止まることを知りません。激痛に耐えることもできず、大きいお腹をかかえて、夜も横になれず、座って眠ることがほとんどでした。
どうして結婚したんだろう、と悔まれ、ふとんのすそをぬらす日が続きました。そんなとき何より薬となったのが、主人のやさしい励ましと、いたわりの数々でした。
私を背負いどこへでも連れて行ってくれました。
結婚したら幸せになるはずが逆になり、ただただ、主人には申し訳が立ちませんでした。でも、立派な子どもを産み主人にむくいるのが、主人へのお礼だと、痛さをこらえ頑張りました。主人は、出産すれば病気も完治する、と物静かに語り励まし、毎日やさしく、手足となって協力してくれました。
結婚して一年が過ぎ、長女が生まれました。でも、足の傷は治ってくれません。四つんばいの姿で、掃除、洗濯、炊事と、主人が赤子の風呂入れ……うれしく感じながらも人さまに見せられませんでした。
長女が幼稚園のころでした。園でお弁当の日があり、そのお弁当すら作ってあげることができません。でも子どもながらに、母親のつらさが分るのでしょうか、
「お母さん横になっていいよ、私、さつまいも大好きだから、自分で作って持って行くよ」
と、ニコニコ顔でいいながら、さつまいもをレンジでたき、持っていくのです。泣いて帰ってはこないかと心配で、そっと入れておいた手紙の返事は、「珍しいいも弁当、みんなで分けていただきました」との先生からのものでした。
遠足、運動会のような親子同伴の行事になるとゆううつで〈雨になりますように〉と祈る思いでした。でも、親を気づかってか、「お母さん、先生と行くから心配しないでね」
といってくれます。子どもが母親を必要とするとき、私は何もしてあげられないのが、はがゆくとてもつらい思いをしたものです。
「こんなお母さんでごめんね」
といえば、「お母さんが側に居るだけでいいよ。元気だして、元気だして」と励ましてくれました。この娘の明るい笑顔に、どれほど励まされたかわかりません。
こんな私にも、できることがありました。学生時代に習ったことを生かし、子どもたち相手の仕事をさせていただいております。
ある日のこと、生徒たちを連れた先で、こんな出来事にあいました。ひきずった私の足から、突然出血が始まったのです。痛さと不安で、私は動くこともできず、立ちつくしていました。これを見ていた生徒たちは、必死の思いでチリ紙を集めに走りまわり、床の上をきれいに拭いてくれたのです。
自分たちの手足、服が汚れることを気にすることなく、誰もが一所懸命でした。
「だいじょうぶ?」と、かけ寄り私の顔をのぞき込む生徒たちの顔に、キラッと光るものが見えました。私も、自然に涙があふれ胸いっぱいになりました。このときばかりは、故郷を離れ、心さびしくしていたことが大へん恥ずかしく思えました。
私に無心につくす人々を目の当りに見たせいか、四人の娘たちも人の痛みを我が痛みと感ずる子どもに成長してくれました。母親が口で教育するより、自分たちの目で確め、肌でふれあいながら学んでいく体験ほど価値のあるものはないと、現在、自分なりに解釈しております。
どんなに科学が発達し、宇宙を相手のニューメディア時代となった現代ですが、人の情け、哀みを失ってはいけないと感じました。
一本、二本……と足の指を失いながらも、主人、四人の娘に恵まれ、十年目にしてあの難病もウソのように治ってしまいました。足の指こそありませんが、私は、日に日に明るくなっていったのです。
しかし、この喜びもつかの間、四人目が生まれてすぐ、今度は心臓病におかされました。“1年の命”と死の宜告を受け、泣くことさえできず、ただ、今までの辛い半生を思い出すばかりでした。生きる喜びと、命の尊さを知ったばかりのときでしたので、そのショックはとても大きいものでした。
打ちひしがれ、絶望の淵に立つ私を、またまた大勢の人々が救ってくれました。あたたかい人々の愛情は、ときには励ましとなり、ときには叱正となって私をささえてくれたのです。そのかいあって一命をとりとめることができ、人なみの幸せを今、つかんでいます。
私も身体障害者となりましたがこれに甘んずることなく、自己に厳しく、また、生きている喜びを一人でも多くの人とわかちあうことを使命とし、今後を生きていきたいと考えております。
生命を粗末にする若者が増えていますが、どんなに辛くても、失望のどん底にあっても、精一杯生きることが人間にとっていちばん大切なのです。
私は今、重度身障者の施設でのオシメ作り、園児のお世話、また、娘と協力し、ある子どものお世話もさせていただいております。自分の信ずる道を貫き通し、これからも体の続く限り、ボランティア活動に励んでいきたいと思っております。