大分県における一村一品運動は「村おこし」「町づくり」のモデルとして全国から注目を浴びています。なかでも大山町(農業振興)と湯布院町(観光・旅館業)は有名です。
今回は、わが町と地形の似た大山町を紹介します。人ロ4700人。気候は内陸型。中心を大山川が流れ、それにそって集落が点在、総面精45.6㎞でその内の九割が山林原野、耕地は一割にも満ちていませんでした。農家人ロは2820人で農家戸数は700。一農家当たりの耕地面積は30a未満が最も多く、50a未満の経営が60%を占めていたため、多くの農家が、山仕事や山稼ぎによって生計を支えていました。
一村一品運動の起りは、昭和30年、農協長だった矢幡治美氏が町長に就任した年から始まりました。当時の大山町は、米麦を中心に粟、黍、コンニャクやイモ類等の極めて生産性の低い作物を作り、わずかに換金作物として大麻と養蚕が行なわれていました。いってみれば、零細農業であり、町全体が貧しく暗い町でした。
このような町の雰囲気を打開し、活気のある町づくりをするために起されたのが、一村一品運動なのです。まず、所得をあげ、そして教育、また新しい意欲が湧いたら次の所得増加のための活動-という運動が実践されて来たのです。
特に大山町が全国に知られるようになった一村一品運動は、「梅、栗を植えてハワイヘ行こう」という運動を実施して来たことです。
この町で、梅と栗を振興作物として取上げ、「村おこし」に取組んだ理由は次のようなことからです。当時、所得倍増計画が進行中であり、日本人の食生活も魚や肉類などの酸性食品が多く摂られるようになっていました。大山町はここに着目しました。将来きっとアルカリ性食品が必要になると判断し、米中心の農業から、果樹中心の永年作物に切りかえたのです。これによって管理面での省力化と、さらに梅と栗はもともと地元に生育していたという自然条件の利用、傾斜地を利用し栽培できるという土地利用の面から、計画実施されたのです。
収穫は、梅が5、6月、栗が9、10月となっており、米づくりの農繁期との労力の競合がありません。労力の分散と収入の平均化が図られるわけです。実績は年々上がりました。 (つづく)