「自分の名前は棚に上げ、他人様のお名前に珍名奇名とは何事だ。 君の名前こそ奇名ではないか、間野多賀弥は、方言でマノタガヤ(何処の誰か)ではないか、冗談ではない、世の中を茶化すのもほどほどにしなさい」との読者からのご指摘。いたく恐縮しております。
つきましては、本号より本名を名乗りお詫びといたしたいと思います。
前口上が長くなりましたが、ご免ください。
では、10月号よりの続き……。
字小谷には玉城鉢金(ハチガネ)。 城間源五郎、現小谷区長城間源正の父。
つぎに字新里の桃原屋取に新里朝長。永年村会議員の要職にあった方で、頬にゴルフボール大のこぶがあった。いつも笑顔のやさしい方で、腕白どもからこぶ取り爺さんの異名で呼ばれていた。屋号殿内小の蝶々タンメー、現在の字兼久の新里普善の父。
また、同じ桃原屋取に東恩納盛患(セイボウ)。初対面で、この方の名前を読める方は少なかった。
佐敷小学校の先生を辞めて、那覇市で多数の組合員から推されて那覇荷馬車組合長を永年勤められた。
村の内外は勿論、県下に三百斤(サンバッチャータンメー)の俗称で顔の通った人であった。先代朝潮太郎関(現高砂親方)のような体格の偉丈夫の方で、現町議会議員東恩納盛正の祖父。
字兼久には、名幸抽嘉(チュウカ)という方も居られた。
字佐敷の平良亀衛門(キエモン)は私の叔父です。また、平良亀之丞(力メノジョウ)、さながら役者のような名前。(間野多賀弥こと平良亀順)