この写真は、私が四歳の頃、ハワイの親戚へ送るということで家族全員で写したものです。
私にはこの写真を写した時の記憶はありません。戦後になってハワイから送ってきたので、はじめてこのような写真があったのかと大変懐かしく思いました。今から75、6年前の写真です。
右が父の与那嶺正則です。父は、外間のメーヌシムの二男として生まれ、首里で一通り学問を受けた方でした。(外間の故与那嶺正行氏の曽父の弟にあたる)
祖父は、廃藩置県当時の佐敷の地頭代を務めた方だそうです。
父は、正直者で部落の人たちからも信望が厚く、区長や役場の吏員も務めました。当時は、読み書きのできる人が少なかったので、人々に代わって手紙を書いたり読んだりしてやっておりました。人から何か頼まれると自分ができることはいやとはいいませんでした。それに達筆で手先が大変器用でした。外間のミルク(弥勤)や祭りの小道具は、ほとんど父が造ったそうです。それから、部落で子供が生まれると名前をつけたり、出生届けをするのもほとんど父が面倒みたそうです。そのかわり正直すぎて商売はへたでした。
豚を売るときなど親友の渡名喜元勝さん(伊原 故人)がいつも仲立ちをしてくださいました。
私もよく伊原へ渡名喜さんを呼びにやらされたものでした。
父の前に立っているのが長男の正清です。彼は、第二次大戦に具志頭で戦死してしまいました。次が私で、私の左が母です。左端が姉のカマです。私がいうのも何ですが大変美しい女でした。当添の金城家に嫁いだのですが41歳の若さで亡くなりました。それから、顔は見えないのですが着物でくるんで母が抱いているのが二男の正秀です。彼は、25歳のころブラジルヘ渡りましたが、二、三年まえに亡くなりましてね。この中で生きているのは私だけになりました。
(伊原 仲村渠 千代=八十歳談)