この写真は、50年前、すなわち昭和7年の佐敷尋常小学校の卒業記念に正門前(現農協の向かい)の階段で撮影されたものである。
卒業式というと、今も昔も変わらないのが恩師、あるいは村長をまじえての写真撮影だったようである。といっても服装は昭和10年代に入ってからと違いまだ詰襟、セーラー服ではなく、男女ともほとんど着物姿である。男生徒は着物に着帽姿も見られる。佐敷小学校は明治15年、役場内に開設されて以来、今年で創立百周年を迎える。写真二列目右から2番めは去年9月急逝なされた渡各喜元尊先生である。故渡名喜先生は40余年にわたる教員生活を送られ佐敷町の教育に残された攻績は計り知れないものがある。先生の残された遺稿をもとに佐敷小学校の百年の歴史の一端を見てみた。
佐敷尋常小学校 あの頃の教員生活
渡名喜元尊
振り出し
私は、昭和2年3月に沖縄県師範学校本科一部を卒業して、4月1日短期現役兵として都城歩兵第23連隊に入営、8月31日に5ケ月間の勤務を終了、陸軍歩兵伍長勤務上等兵として任期を満了、退営した、その間に配置校も決り、私は久米島尋常高等小学校訓導として発令されていたので9月の初め父といっしょに久米島に渡った。結局教壇に立つのは二学期の9月からであった。
年は20才、月額40円、受持は高等科ときめられ、いささかとまどったが、幸いに校長が屋比久出身の宮城徳清先生だったので、いろいろとご指導をいただき、落付いて教鞭をとることができた。
佐敷小学校へ
久米島で1年7ケ月を送り、昭和4年3月に、恩師玉城抑耕先生のお取り計らいで、母校佐敷尋常高等小学校訓導に任命された。校長は南風原村宮城出身の与那嶺茂種先生、抑耕先生は首席訓導(今の教頭職)その他先輩には故西銘功助、嘉数亀九郎、宮城寛勇先生やご健在の瀬底正八先生方と教材研究の後は、中庭でテニスをしたり、宿直室で碁を打ったりして楽しんだことも忘れがたい思い出である。女の先生では大城カナ、野里千代、金城ユキ先生などが印象に残っている。佐敷小学校へ赴任した年の担任は六年ロ組で、成績がよい子と、中学校進学希望者で編成されていた。なかには戦死したり、病死したりして残り少いようだが現に新開の区長外間長助君や、民生委員の渡名喜元吉君、前村会議長瀬底正麗君、元伊原区長真栄城守一君などが元気で活躍している姿を拝見して心強い思いをしている。
体育主任となる
身体も割に丈夫で声量もあったせいか体操主任を命じられ、当時芽を出したバレーボールやバスケットボールの宣伝晋及に力を入れ、一般陸上でも島尻郡陸上競技会でよい成績を収めることができた。学校運動会は今同様毎年秋に行われた、音楽隊は今の盆踊りの舞台のように北側に高い櫓(やぐら)を作り楽器はオルガンと太鼓だけで係の先生方は一日中弾いたり、たたいたり、歌ったりしてへたばっていた。集団演技の出場、退場には「もしもし亀よ」とか「桃太郎さん」などの曲が用いられ、ダンスは「勇敢なる水兵」(煙も見えず雲もなく)「婦人従軍歌」(火筒のひびき遠さかる)「水師営の会見」(旅順開城約なりて)など、軍国調の曲目が主だった。村民運動会では、体操主任ということで出発合図係だった。
トラック競技は今のような直線コースとか円型コースでなく、運動場の東側に4、50人が横に並び、西側の福木を廻って出発点に帰る仕組になっていた、これには反則もくそもなく、他人をつきとばしたり、押しても文句をいうものはいなかった。
号砲はピストルではなく軍隊払い下げの村田式歩兵銃を使用した、これは薬きょうに火薬をつめ、一発打っては薬きょうを抜きとり、又薬きょうをはめて打つといった旧式で不便な鉄砲であった。ときたま青年の徒競走のとき一発放ったが足並が揃わなかったので「止れ」の号令をかけたが聞えなかったのか、一位で折り返し地点に近くまで走っていた青年がいきなり私のところにぶつかって来ておどろかされたこともあった。
学芸会
学芸会は、学校の年中行事として、遠足旅行、運動会とともに毎年行われた。
この行事には、父兄にとって学校参観を兼ねたもので多くの父兄、母、姉がつめかけにぎやかにくりひろげられ観衆を湧かせた。先生方の歌三味線、図画、習字、お話、朗読、唱歌、理科実験、ダンス、劇など、多種多様なプログラムに観衆から万雷の拍手が送られた。劇の主役は津彼古の瀬底正俊君、伊原の真栄城勇君、手登根の仲村渠マカトさん(現窪田千代)などで持前の才腕をふるっていた。
遠足旅行
3月10日の陸軍記念日には遠足があって、下級生は新里、小谷の馬場、上級生はスクナ森や知念村の赤道馬場、玉城村のウエズロ馬場へ、5月27日の海軍記念日には、馬天浜、仲伊保の浜、ミーバルの浜など遠足を楽しんでいた。
旅行は費用の関係で希望者ばかり集めて5年生は島尻二泊、6年生は中頭三泊、高等科は国頭方面へ五泊六日位で行って来たように思う。どちらも往きは徒歩、帰りは軽便鉄道を利用した。
服装は和服、はきものは、ぞうりかわらじ弁当毛布を背負っての出で立ち、小使さんは食料、調味料などをかついで次の宿泊所(学校)に近道を走って夕食の準備をするのに大いそがしだった。朝は未明におきて、朝食と弁当作りに汗だくだった。
学事奨励会
時季は覚えていないが村では原山勝負差分式と学事奨励会が行なわれて、学校も職員と児童代表が参列した。この式には各字は旗頭を先頭に役場に集結し、そこから会場(新里馬場と屋比久馬場の一年交替)まで東西の旗頭をひるがえし、津波古、屋比久の獅子まで踊り出し、鐘太鼓を打鳴らしての行列で勇荘そのものであった。恒例の式が済むと名物の馬勝負である。名の知れた愛馬に騎手を乗せ、赤白にわけての勝負だけに応援合戦も盛んであったが、子どもたちはお菓子、大人にはヤーシ小につめた泡盛と弁当重(ビントウジュウ)のご馳走を開くのが何よりの楽しみだったという。
それに特別演技として、お医者の屋比久孟徳さんが往診用の大和馬に乗って馬場を一巡しておられた威風堂々たるお姿を屋比久馬場で見たことがあり、今もって忘れられない。
祝祭日
当時は1月1日を新年、2月11日に紀元節、4月29日を天長師、11月三3日を明治節といって国民の祝日として、学校で式を挙げ祝宴も催された。
当時は一般家庭は旧正を祝っていたので新正は平日と変りない。たまたま校長先生とお医者さんは新正だというので年始まわりを理由におしかけ、美酒、珍味に舌づつみを打ったのも昔物語りとなった。
青年訓練所指導員となる
大正の末期から各市町村に青年訓練所なるものが設置され、私は昭和4年6月30日に佐敷村立青年訓練所指導員を嘱託するという辞令を交付された。私と当間さん、瀬底正八先生(どちらも上等兵)が兵式教練を担当することになった。けれどもその頃はまだ制服を買うことができず和服に鉢巻といった格好、各個教練から戦斗演習まできびしく仕込まねばならない。それに年一度は査閲といって、連隊区司令官が廻ってきて、書類点検、訓練の実際それに校門での出迎え、接待見送りなど容易ならぬことで兼職でもあり、短現上等兵の私にとっては堪えきれない苦痛だった。
別れ
それから5年5ケ月の間、ともに学び、ともに遊んだ子どもたちが五十代、六十代の成人となりまたはおじいさん、おばあさんになった方もおられる。光陰矢の如く歳月は人を待たない。そして昭和9年8月31日付で高嶺尋常高等小学校訓導に任命され、うしろ髪を引かれる思いで母校を去った。