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この人を訪ねて…… 沖縄県功労賞を受章された平田善吉先生

「やっぱりうれしいですよ。こういうのは何度あっても。」
平田善吉先生(80歳=屋比久)は、沖縄県功労章受章の喜びをこう語ってくれた。
先生は、明治34年3月15日、字屋比久で農家の長男として生を受けられた。佐敷尋常高等小学校を経て、沖縄県師範学校を優秀な成績でご卒業なされた後、向学の意志かたく、東京美術学校図画師範科へ進まれた。大正14年同校を卒業と同時に岐阜県多治見高等女学校へ赴任され長い教育者としての道の第一歩を踏みだされたのである。そこで、約7年教鞭を執られた後、先生は、沖縄の教育振興に寄与したい一心で昭和6年帰沖し、沖縄県師範学校教諭に赴任された。
「東京美術学校へは、あの頃3名続けて入りましてね。僕の一期先輩と僕と一期後輩と。でも今生きているのは僕だけになりました。卒業してすぐ多治見の高等女学校へ赴任したのですが、そこを辞して、沖縄へ帰るとき、手続きに時間がかかりましてね。そのときは、沖縄って遠いんだなあと、つくづ<思いましたね。手続きあれこれで、結局沖縄県師範へ赴任できたのが7月の末でしてね。ちょうど夏休み前なんですよ。どうせなら二学期からでよかったのにとずいぶんひやかされたものです。」
戦争の時は、学徒兵を引率して摩文仁まで追われ、そこで散り散りになって、玉城から佐敷へおりてきたところを米軍につかまったという。
戦後は、沖縄文教学校教官をしばらく務められた後、辺土名高等学校をふりだしに、糸満高等学校、知念高等学校の校長として、高等学校教育に専念され教育内容の充実、繁栄に貢献された。さらに、知念連合教育区の教育長として、知念地区の多難な教育行政の諸問題の解決に大きく貢献されたのである。
また、先生の専門は美術で、長い間、沖縄造形教育研究会及び同連盟の委員長としても活躍された。全国図画コンクールの審査員も長く務められている。
そのほか、琉球政府中央教育委員、島尻郡誌編集委員長などとその功績の数々は、枚挙にいとまがない。佐敷町でも、中央公民館長や公共施設配置審議委員などを務められている。
昭和47年には、内閣総理大臣から、40年余にわたり、教師の職責に徹し、沖縄の教育振興に尽瘁された功績で勲四等旭日小緩章を受けられている。
「四十年余も沖縄の教育に携って、常に私の胸中にあったことは、本土の人間に負けない気合のもてる青年たちの育成でした。いっしょうけんめいやったつもりですが、なかなか思うようにはできないものです。」と話された。好きな絵も、校長という激務の中では、ほとんど描くこともできなかったという。
退職されたあと道具も一とおり揃えてはみたものの長い年月手にしなかった筆は、思いどおりに動いてくれなかったというが先生がキャンバスを前に描かれる姿を目にした人は多い。
老人福祉センターの緞帳が先生の絵をもとにして織られたのを知る人は少ない。八十歳の老体に鞭打って、スケッチブックを手に町内をかけめぐっておられる平田善吉先生。その姿は実に生き生きとしておられる。
私たちが先生から学びとらなければならぬことは多い。いつまでもお元気でいてほしい。

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大分類 テキスト
資料コード 008435
内容コード G000000483-0004
資料群 旧佐敷町(佐敷村)広報
資料グループ 広報さしき 第66号(1981年12月)
ページ 1
年代区分 1980年代
キーワード 広報
場所 佐敷
発行年月日 1981/12/05
公開日