それは農家に科学を持ち込む努力である。
農業改良普及事業とはという定義です。丁度静かな池に石を投げ込むとポトンと音がして、周井に波紋となって広がっていくようなものと思って頂きたい。
当クラブは、昭和48年10月会員5名で呱々の声をあげてより7ヵ年を経て居ります。
復帰一年後、本土経済の高度成長真っ盛りで、県内では復帰ショックの混乱期に当り、農業受難の時代だと言われておりました。甘蔗代は安く高賃金でその上人手不足、甘蔗作農家は赤字続出、各町村で収穫放棄をやっている最中でした。その頃野菜作りに黙々と励んで居た7人の士ならぬ5人の農士を、当時の普及員石川広道氏のお奨めにより普及組織の一単位(他に四Hクラブ、生改クラプ、津波古愛農会、仲伊保園芸組合あり)として組織し、お互いの親睦と営農の近代化の目標として研究実践していくことに決しました。早速会則を作り月200円の会費で会合は各戸持ち廻りにし先づ農業の基礎知識である農業をテーマにして学習に取り組み、年次を逐って各論へと移行し研修を続けて居ります。
小人数とは言へ講師を招き、夜間の会合を持つには月会費200円ではとてもたりません。各自で6、7000円位は別に負担して約2ケ年、その間会員も増加し8名になったので村と農協から活動助成をしていただいて現在は会員23名(津波古2名、佐敷2名、手登根2名、伊原4名、仲伊保9名、冨祖崎4名、毎月第3月曜日午後2時より村農協において月例会を持ち今年から会費2500円とし村と農協の助成金を合せて総額21万余円で運営しております。使途の主なるものは、月例会費、先進地視察費、教育情報費、現地批判会費、及び種苗購入費等になっていて最少の経費で最大の効を狙い有効に活用して居ります。
即ち、7カ年間に会員が約5倍に、当初ビニールハウス面積、全員で一反歩そこそこのが現在約7反歩7倍へ、作目も胡瓜、ピーマンの二作から、水耕ミツバ、トマト、貝割菜、苦瓜、オクラ、菜豆、南瓜、レタス等に多様化して参りました。
ところで、石油ショック以来の経済低生長期に入り今や世は不確実性の時代だと言われていて、円高ドル安によるさまざまな外圧と豊富な生産による物の過剰の最中にあります。だが、人間が生きて活動するにはどうしても食物を摂取しなければなりません。このことは、けだし永久不変の確実性だと思われます。
そこで今年の活動目標は「農業を取りまく内憂外圧をはね返し、外国並に国県の政治経済の動向を適確に捉え、その変転に敏速に対応して『求真有理』の気概と『継続は力なり』をモットーとする農民像を確立し独立自存の農業経営を充実して生活水準の向上に資する。」ことにしております。月例の研修計画は次のように策定してある。
七月 定期総会、事業計画予算決算の承認
八月 移出用花弁、有機肥料について
九月 病害虫対策と農薬の安全使用
十月 農業資材について
十一月 化学肥料について
十二月 先進地視察、並に懇談会
一月、二月、三月
甘蔗収穫並に移出野菜の出荷
四月 有望野菜新品種について
五月 現地批判会(会員のほ場)
六月 実績発表
以上の外、産業祭への出品協力、農協共販部会の中心メンバーとして移出野菜の先産出荷に努力する。
今後の方向としては、本邦唯一の亜熱帯性気侯と、本村の肥沃な立地を活用して移出園芸の生産拡大を中心に捉えて遂次知識集約型の農業を推進していく計画である。食えるはずの農家が、農業で食えないという時代ですが、身体の汗も頭脳の汗も惜みなくしぼれば自ら道は拓けてくると思います。そして80年代を経て21世紀の農業を確立する素地を作りたいと念じております。
最後に、未加入部落小谷、新里、兼久、屋比久、外間から最低1名の仲間を勧誘したいこと。更に村当局には多くの農家が切望している基盤整備の早期実施を、農協へは、非常勤役員の移出園芸作物栽培の積極的推進役を果していただく様要望し農研クラブの紹介記といたします。
青年の瞳輝やく熟れトマト
天翔くる冬インゲンの実りつぐ
ピーマンの青き笑くぼにに笑み合へり
山羊汁の力溜め置き甘蔗刈る
畦呂人