なんじょうデジタルアーカイブ Nanjo Digital Archives

第1回 青少協  優秀作品76点を表彰 子どもたちの夢や希望を大切に

校、家庭での生活をどのような目でみつめ、どのように考えているのかがよくわかります。
山城時正会長(村長)は「村の青少年が将来への希望と目標をもち、明るくたくましく成長していくことは、すべての村民の願いである。私たちは、これらの作文であらわされた子どもたちの願いや意見を正しくくみとり、青少協のみならず、それぞれの立場で、家庭で、社会で反映させていく努力が必要である」と話しています。
次は各学年の入賞者と優秀作品です。

中学校
一年
優秀  玉城 美智代
優良  当真 淳子
 〃  宮城 春則
佳作  平田 和美
 〃  与那嶺 朝子
 〃  嘉数 修
入選  玉城 陽子
 〃  山城 恵利子
    東恩納美奈子

二年
優秀  真栄城 清美
優良  吉田 智恵子
 〃  知念 なつえ
佳作  狩俣 節子
 〃  玉城 恵
 〃  山内 若美
入選  仲村渠 清美
 〃  仲本 和彦
 〃  福増 聖美
 〃  玉寄 清美

三年
優秀  嶺井 悦子
優良  奥間 江利子
 〃  玉城 与一
佳作  呉屋 清次
 〃  玉城 幸枝
 〃  当真 隆夫
入選  西銘 栄輝
 〃  玉城 智子
 〃  嶺井 京子
 〃  外間 佐代美

わたしの夢
2年3組 真栄城 清美
「なんになりたい?」と聞かれたら、みなさんなんて答えることでしょう。人それぞれ違うと思うのです。例えば、デザイナー、医者、先生・警察官・絵かきなど数をあげればきりがありません。友だち同士でおしゃべりを、しているとつい「なんになりたい?」と聞き「なんになりたい?」と聞かれることが少なくありません。幼い女の子では「およめさんよ」「おかあさんよ」ということをよく耳にします。私は中学二年生、もう幼い女の子とは一歩夢が違うのです。単なるただ、口で言うだけの夢ではいけないと思うのです。
 よく、夢は大きい方がいいということをいいます。しかし、もし女の子がおすもうさん、野球選手になりたいといってもそれはやはり無理なことなのです。夢は自分にあった、自分にもなれそうなものがいいのではないでしょうか。
今私には、婦人警官になりたいという夢があります。しかし父親に聞かれると婦人警官になりたいと、はっきりいうことがができません。言えば返ってくる言葉は決まっていることでしょう。「なに婦人警官・そんなものより、先生か事務員がいいんじゃないの」と押しつけられるような気がするから「まだ考えていない」と答えなければと思っています。
人間は、どうして夢を持たなければならないのでしょう。そう聞かれれば返事につまってしまいます。一口で言えば夢を持つそれは、生活をするにあたってお金をかせぎ、働かなければならないからなのです。それは別にして、どうしてと聞かれたら皆さんはどう答えることでしょう。公務員だからという人もいることでしょう。月給が安定しているからという人もいることとでしよう。私は、婦人警官という職業が男のような自分に合っているような気がするし、また世の中の人々の役にたちたいからと答えることでしょう。
 幼い頃私は、いくつかの夢を持ちました。その一つをみなさんに紹介しましょう。幼稚園にあがった頃私には、歌手になりたいという夢がありました。いつも友達七人そろって幼稚園の行き帰えりに、よく歌を歌ったものです。あの頃は、本当に歌が好きでたまりませんでした。歌は、へたでも歌手になることが夢だったのです。
 ところが、五年生にあがって歌手になりたいことをバカバカしく感じ始めたのです。あれは音楽の時間のことでした。歌のうまい人を何人か選ぶテストでした。それで、選ばれるかも知れないという気持ちで、心が落ち着かなかったのです。しかしみごとに落ちてしまいました。その時のくやしさ、みじめさは私にとっててとても大きく、ショックでした。そして好きなだけでは夢は、かなわないということを知らされたのです。それから人前で歌を歌うこともはずかしいと思うようになり、歌手になりたいという夢は、少しずつ薄れてきました。
何か月かたったある日の作文の宿題に「将来の夢」という題目で書くことになったのですが、なかなか何を書いていいのか決まりません。その日テレビで刑事ドラマを見ました。。その中に婦人警官が道を渡ろうとするおぱあさんの手を引く場面が生き生きと私の目に映ったのです。一瞬、婦人警官の姿にあこがれを感じました。そして作文は、婦人警官になりたいことを書きました。その時から私の夢は、婦人警官へと傾き始めたのです。最初は婦人警官の服装にだけあこがれを感じ、あーいう服一度でいいから着てみたいなと思うだけでしたが、今では職業のりっぱさにあこがれています。といったら婦人警官より、りっぱな仕事はないと感違いされることでしょう。がただ私にはその夢がとてもすばらしく思えるのです。
どんな婦人警官になりたいですかと聞かれたらまず、親切でおもいやりがあって、すなおでで、真剣に人々の問題を考え、信頼があり、多くの人々から好かれるようになりたいと答えます。
この間、警官がお金を盗むという事件がありました。それを見て私は腹がたってたまりませんでした。どうして警官なのにあんな事をしたのだろう。警官ならば事件を一つでも減少させるようにがんばるのがほんとうなのに、かえって犯罪を犯すなんて、私はこの警官を軽べつするよりくやみました。いくらお金がほしくてもこんな警官になりたくありません。
私自身もっともっと強い人間になるために今まで以上に勉強生活面に努力しようと思います。そして、警官になったら、今問題になっている少年少女の家出、万引き事件など解決し、一人でも多くの人を良い方向へ導き、事件などを一つでも減少させることを目標に、平和で明るい日本を作りあげるためにがんばっていきたいと思います。

わたしの家族
3年4組 嶺井 悦子
親の目から見れば私は「自分一人の力で大きくなった」と思ってるような顔をしているらしい。何かにつけて反抗ばかりするし、親の言うことをとても素直に、はいはいと聞くようないい子でもない。しかし、私は決して「自分一人の力で大きくなった」とは思っていない。生まれて15年、両親やそして他の家族のあたたかい愛情の中で育って来た。今の私では一人では何もできないひょっ子だし、それだけに家族には深い愛着とそして心のよりどころを感じている。
ここで簡単に家族の紹介をしてみたいと思う。
私達の家族の誕生は昭和35年の4月。住まいは那覇市松尾の小さなおんぼろアパートであった。むろん、私はまだこの世に生を受けてない時代だが母の話ではやはり貧ぼうだったらしい。父22才、母21才の若い夫婦だから、それも仕方ないことだろうと思う。でも当時の写真などを見ているといつもにこにこ、二人でいるだけで幸せ一杯という感じがした。やがて翌年の二月私より二年早く兄が生まれた。その時の父母の喜びようは大変なものだったらしい。特に父は始めての自分の子供で(むろん母にとっても)あるため、大事に大事に、しかし少々乱暴に育てた。そして昭和38年、8月、暑いさなかに私が生まれた。残念ながら生まれた時のことはまったく覚えてないが父は、兄が生まれた時より喜こんだらしい。大体にして父親とはそういうものだ。
育てている時は成長ぶりに目を細め、いざ嫁に出すとなると淋しくてたまらない。実際、私の父も私がふざけて将来するかもしれない結婚の話をすると、とたんに不気嫌になる。「結婚は30才過ぎてからだ。」などと私がオールドミスになるのを願ってるかのようである。
さて、母の方であるが、母は二番目の子だからと言って手をぬいて育てるような人間ではない。ちゃんと母乳を与え、予防接種も健康診断も一つ残らずきちんと済ませ、医者から感心されたそうだ。その頃、赤ちゃんコンクールで優良賞を取って、りっぱな賞状をもらったが、それが今でも、母の数少ない自慢話の一つだ。
私が一才の時、首里へ引越した。よい環境と暖かな家族の中で私はすくすくと育った。ところが小学校の四年ぐらいの時だったと思うが、父と母の猛烈なけんかが起こったのだ。仲のいい夫婦ほどよくケンカをする、というように、それまで父と母も軽いけんかぐらいならしょちゅうやっていて、私達も聞かぬふりをしていた。しかし、その時はいつもとはだいぶちがっていた。私は幼な心にもこのまま家族がばらばらになってしまうかもしれない、という恐怖感で涙がとめどもなく流れた。あの時の気持ちは今でもはっきり思い出すことができる。そして私達兄弟は、祖父の家へ行き、そこから電話で父母に訴えた。すでに私の声は涙声だった。父母もはっとしたようだった。その夜、家族みんなで食事へ行ったその時、父がぽつりと「家族はばらばらではいけないな、ごめんね。」と言った。父の言葉はそのまま現在の私達の家庭を現わしている。今では兄が高三、私は中三、弟が小五と、もう一人前に自分の主張をし合うつまり、個性の集団となっている。
五つの個性、人間が集まって私達の家族が成り立っているのだから私達の家族は一人でも欠けるとまるで火が消えたように静かである。しかし、いつかは一人一人独立して離ればなれになる日が来るだろう。現に兄も熊本の大学へ進学する予定である。その時が来たら、きっとさみしくはなるだろうが、「離れていても心は一つ」と思いたいまたそれが家族というものだろうと思う。
私は、家族一人一人がたまらなく好きである。これからも家族の輪を大切に、生きてゆきたい。そして私も将来、こんな家庭が作れたらいいな、と思うのである。

わたしと家族
2年4組 玉城 美智代
私の家族は、祖父・祖母、父母、姉そして弟が二人です。
今度、祖母のとうすびーがあり、そのお祝いに私と姉が汗水節をおどることになりました。汗水節は、昔から農業をしている祖父の大好きな民謡です。また、おどることもできるので、祖父が汗水節を教えることになりました。
練習は夕食後に始められました。父がレコードの係をして祖母や母、弟達は、そばで応えんしてくれました。
初めは、祖父がレコードに合わせておどってみましたが、それだけでは私達はおぼえきれず祖父は、一節一節ていねいに指導してくれました。
「トゥン トゥン テン トゥンテ トゥンテ トゥン トゥン テンまでは、くわをかついで、ユイヤサーサでくわをおろす。」祖父はと中と中そんなことをいいながらおどって見せました。
また、見て気に入らないようだったらもう一度もう一度とくり返し何回もさせました。そんな祖父を見ていると、「祖父は、どうしてこんなにも熱心に教えてくれるだろう。祖父のすきな汗水節だからだろうか」とそう感じられるほどでした。
祖父は、私達にとって、竹でおもちゃをつくったり、いろいろととってきてくれたりするやさしい感じの祖父であり、お酒を飲んでよっぱらいおこった時は、こわい祖父ですが、私達に汗水節を教える祖父は、いつもとはちがった祖父のように思えました。祖父の汗水節のおどりは、ふつうの人のおどりとは、どこかちがっているように見えました。祖父の汗水節は力強くいかにも、畑仕事の苦しさや喜びを表しながらおどっているように思えました。
こうして、練習は進んでいきましたが、と中でなかなか進まないのを見ると祖父は、「おじいが、汗水節をならったのは、何十年も前で、今でもぜんぜん忘れないでおどれるくらいなのに、おまえたちは覚えられないのか。」といいます。私には、祖父が何十年も前にならった汗水節を今だに忘れていないことに感心させられました。私もぶようを習った経験はありますが、何年か前のことなのに、覚えていないのです。祖父は、それほど汗水節が好きなんだな。と思いました。
けいこは、毎日毎日続けられそのせいか私も姉もだんだんおどれるようになりました。また祖父は、おどりだけではなく舞台の入場のし方、退場のし方もくわしく教えてくれました。
練習は、早くから夜おそくまでの日がつづき祖母や父母もそばで見ていてくれました。
当日私達は公民館でおどることになりました。祖母は側で私達が、出て来るのをまっているようでした。私達の番がやってきました。司会の人が、「お孫さんが、おばあさんのためにおどります。と言ったとき、なぜかてれくさく思われました。
私達がおどっている時、祖父は、いっしょうけんめいに、私と姉の汗水節をみていてくれました。こうしてとうすびーは終わりましたが、祖父から習った汗水節は、農業をしている。祖父にとって心のやすらぎをあたえてくれている民謡だと私は思いました。祖父は、永年畑仕事をし、いつも朝早くから畑へ行き夕方まで汗まみれになって働いてきて帰ってきます。畑仕事には、苦しさや、作物ができ上がった時のうれしさがあり、それを汗水節はうたっているのだと思います。

汗水ゆながち 働ちゅる人ぬ 心うりしさや 他ぬ知ゆみ 他ぬ知ゆみ
ユイヤサーサ 他ぬ知ゆみ
私は、農業をする祖父の汗水節は、ほんとうの汗水節だと思います。

審査総評
1「希望」を取り違えた生徒がいた。
2 自分から進んで応募する生徒が少なかった。
3「家族について」「夢について」改めて考える機会が与えられてよかったと思う。
4 題名はもっと増やしてもいいのではないか。
 例えば「友情」「今私が努力していること」など
5 時期としては一学期がいい。今度の場合、他の行事と重なって書く方もたいへんだったと思う。
6 青少協の方で審査委員を決めて審査するようにした方がいい。
仲川松江、稲福清子、西原直子

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大分類 テキスト
資料コード 008435
内容コード G000000470-0004
資料群 旧佐敷町(佐敷村)広報
資料グループ 広報さしき 第54号(1979年1月)
ページ 5
年代区分 1970年代
キーワード 広報
場所 佐敷
発行年月日 1979/01/10
公開日