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晴れの文部大臣杯受賞 知念俊明君全国青年弁論で最優秀賞

「一本の萬年筆」 
津波古の知念俊明君(知念高校3年)が、第22回文部大臣杯争奪全国青年弁論でみごと最優秀賞に選ばれ文部大臣杯が贈られた。知念君のテーマは「一本の万年筆」、数々の賞に輝いた弁論歴にあっても最終年次の文部大臣杯。ほんとにおめでとう。

「ここが三十三年前、死体処理場として使われた所です。前方の岩の下には、今日なお二百余体の遺体が取り残されています。」
皆さん、何の説明だかおわかりですか。
六月二十三日、私は、沖縄の南部戦跡を自分の足でたどるため、「沖縄戦を考える会」の会員、先生、仲間の高校生とこの催しに参加しました。
沖縄の六月は雨期、三十三年前の、この日も激しい雨と砲弾が飛びかった所です。
しかしこの日は、対象的に真夏の太陽が強く照りつけていました。その中を、沖縄守備隊が退却した同じ道を、南へ南へと下り、第一の見学現場、玉城村糸数の壕の中へ入っていったのです。
糸数の壕は全長二百七米。当時の姿を最もよく保存した壕の一つでした。塊の中は真っ暗でした。冷たい雫がポタリと落ち、ひんやりした空気が肌に触れる中を、懐中電灯のほのかな灯をたよりに奥へ奥へと進んでいきました。すると、軍靴がめくれ、飯ごうがサビつき、透きとおった清水をたたえた井戸があり、近くのカマドのあとには昨日のような生々しさが残っていました。不発弾に注意しながらあたりを掘り返していると、自決のために使われた青酸カリのカプセル、メガネや骨が、あちらこちらで見つかりました。
「あっ!これ何かしら。」
女の人が、ポッンとあいた小さな穴を指さしていました。そこから、キラリと光る物が見えたのです。掘り返してみると、なんとそれは、三十三年前の万年筆だったのです。泥が、べっとりとついていましたが、丁寧におとすと、ちゃんとそこには名前まで彫ってあったのです。“サトウマンタロウ”TOKYO JAPAN。
古びた一本の万年筆は、私に何かを訴えているようでした。
“後に残るものはなんだ!むくろになりはてた姿、血と爆音、孤独に封じられた魂”
そして、ここで見聞したことは、亡くなった人のためにも、戦争の悲惨さを、私が知った千分の一いや万分の一でも多くの人に訴えなければならない。そう思ったのです。それが私の義務ではないかと
私が戦跡めぐりで憤りを感じたのは、ある塔の碑文でした。碑文の中には、日本兵の勇敢さや多勢に無勢で負けたのは当然だというような意味が含まれた文。しかしそこには多くの巻添えになった何の罪もない住民に“すまない”という謝罪の念が一かけらもなかったのです。
沖縄戦は、世界の戦争史の上でも稀にみる住民を巻き込んだ地上戦であったのです。
日本政府は、苦しかった戦争のすべての真実を教えず、経済大国にのし上がった今日の我が国の繁栄を讃美してきました。
こうして、沖縄戦の真相は究明されず、いつか日本の大きな傘の下にくり込まれてしまいました。本土側の沖縄の認識とは実はこんな形であったのです。
世界の平和論とはどうであろうか
一枚の紙に平和を約束する一方で、各国はそれぞれ人殺し兵器の開発に努力しています。対戦車ミサイルの命中の確かさ。艦上に人間が居なくても、リモートコントロールで確実に敵をたたく艦載ミサイル。あの黒い殺人機B52の能力をはるかに上回る米国のBI機の開発、どれをとっても平和と遠くかけはなれています。地球上から、人類を滅ぼすのは、人間でなくて一体誰であろう。
「平和は一片の紙きれによって約束されるのでなく、我々一人一人の心の中にある。」とは、ケネディ大統領の名言です。しかしこの言葉も今や色あせようとしています。
沖縄では、死後三十三年を迎えると、死者の霊魂は神となって昇天するとされます、同時に、これまで、生きた人間と何らかの点でかかわってきたものが、プツリと切れて、忘れていい世界のものになってしまうとされます。それを機に死者の魂と生きている人間がかかわりを断ち切り完全に忘れてしまっていい存在になってしまいます。
沖縄の山野には、今なお二千体の未収骨があるといわれています。白骨は、豊かな南国沖縄の、生い茂る雑草の中に散在しています。
しかし、自衛隊員の収骨作業が、ブルドーザーで土石と一緒に収骨する有様であった、との報道には、私の胸は痛みました。
死者を物とみる心には、人間を大切にする心が、果して芽生えるでしょうか。
死者の骨を一本一本酒で清める、そんな素朴な行為にこそ、死後の人間を人間と認め、大切にする心が育つものと思います。
ギザバンタには、水泳の家族連れがのんびりやすんでいました。しかしここは沖縄戦末、断崖から身を投じて、多くの命を散らしたところであったのです。
姫百合部隊最後の束辺名の岩かげには、今だに白骨があり、十五歳の乙女が散った最後の地としては、余りに岩だらけでした。
三十三年忌は、神になる祭りです。この世に生ある者が、神に別れを告げる祝いの日です。しかし平和を考えるとき、沖縄戦で死んでいった多くの県民のしにざまを忘れていいものであろうか。
私は、沖縄の南部戦跡を自分の足でたどってみて、極限の生活を再びこの地上にあらしめてはならない、と強く決心しました。
私は、三十三年忌を、真の平和を問い直す、出発点として、皆さんに訴えるものであります。

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大分類 テキスト
資料コード 008435
内容コード G000000467-0001
資料群 旧佐敷町(佐敷村)広報
資料グループ 広報さしき 第50号(1978年1月)
ページ 1
年代区分 1970年代
キーワード 広報
場所 佐敷
発行年月日 1978/01/01
公開日