佐敷村の仲伊保海岸に私の会社の工場が建っている。その工場が出来た時から会社と村とのかかわりあいがずぅーと続いている。爾来10年あまり、当時の村はもはや変貌して近代的な地方村とし発展を遂げている。私はしかし何か用事の外はあまり役所に行っていない。村のお世話になっているのだからもっと役所の皆さんとお会いしいろいろお話しをうかがい意見を交換すべきだと思っている。
私はとなりの知念久高島の出身で6才まで島に居たから実は子供のときから佐敷とのかかわりは既にあったのである。もうはるか昔のことで記憶もさだかではないが那覇・与那原・馬天・佐敷と小さな汽車から客馬車へと乗りつぎがたがたゆられながら走ったものである。両がわにおいかぶさるようなアダンの群れのなかを白い砂道がその向うに細く延びていた。馬のお尻や馬車のなかにも蝿がいっぱいたかっていてたえず手でおいはらい、何んでこんなに蝿がいるのかと不思議に思ったものだ。アダンや馬のふんの臭いがただよいがたがた走る客馬車をおうていたことが幼いころの思出として今でも淡な感傷をさそうのである。
久高島にゆくのにはこの佐敷街道を通らなければならなかった。長じて那覇で学校に行くようになってからも時々久高島にはいった。
私はそれからは全く沖縄をはなれ軍隊に入り戦争がすんで沖縄にかかへるまでおよそ20年あまり故郷を忘れさっていた。
その間にあの小さな汽車や那覇の汽車・与那原の客馬車も又姿を消していったのである。国破れて山河ありと云うがこんどの戦争で沖縄の山河はその形まで変へ、其処に住む人々も年々去って雲煙のかなたへ消えていった、まことに懐旧はるかなりである。
ともかく沖縄も佐敷も変った。まさに面目一科である。与那原から馬天・佐敷にかけて臨海石油工業施設が白い威容をほこって立ち並び近代的な住宅、マンションが山の中腹まで広がり、ひろい補装道路には自動車の流れが止まることを知らない、ゴルフ場があっちこっちに開かれその間を青い砂糖きび畠が埋めつくしている。きらめく太陽・紺青の海-沖縄の天地はまさに洋々たる繁栄をその溢れる活力で約束されているように見える。
だがここにおいて世の中が大きく変ってきた。戦後30年余、繁栄の道をいっきに走ってきた世の中がカーブにつき当った。このことはご承知の通りアラブ地方の産油国・オペック諸国の石油の生産や価格の操作によって世界の経済が混乱した、云わゆる石油シュックに端を発して深刻な不況の波が世界的に広がっていったのである。
佐敷村も当然その門外ではありえない、それなりにいくたの問題を抱えていると思う、ともあれ村は村なりに地域的な特長を生かす方法はないものか。産業をおこし経済を豊にし人を集めるようにしなければならない。
雄大な中城湾の展望・馬天港を起点として周辺に展開する親ケ原一帯の高台・名所旧跡がその中には多数あるのではないか。
佐敷村はそう云った天然の景観に恵まれている。これを総合的に有機的に展開させて盛んにPRをする。そのPRは役所の名まへでやる必要がある。つまり佐敷村の姿勢が大事だと思うのである。勿論村の当局や皆さんのなかで専門的に検討され、種々対策されているとは思う。ただ私なりに日頃抱いている所感を申しのべてみたにすぎない。
―寄贈原稿―