「少年よ大志を抱け」かの有名なクラーク博士はいいました。なんと広く、そして大きく、力強いことばでしょう。少年、それは私たち。大志、それは大きな強い意志。つまり、私たちが生きていくための原動力希望をもて、ということだと私は思います。
私たちは、生きています。
「生きるための原動力」とは一体何だろう。私は考えました。
生きていくからには、太く、大地に根をはり、私は生きているんだ。という実感がひしひしとこの身体に染み通る生き方をしたい。そして、そんな生き方をするには、「いかにして今日という日を自分のものにし、それを明日へと、生かすことができるか」そう考えるのは私だけでしょうか。
人間は、だれもが幸福でありたいと願っています。その幸福を求めて皆それぞれ、毎日毎日を生きぬいています。「ああ、今日もこんなことが出来た。一生懸命頑張った」という充実感、その時その時を自分の出来る限りの最高の努力をすることそれがすなわち幸福というものだと私は考えます。しかし、その幸福というものは、自分一人だけで得られるものではありません。私たちは人間社会に生きているのです。そこは、いろいろな人々の住む、集団、協同生活の場なのです。その中でいかにしてそれに適合し、尚かつ自分の能力を最大限に活用して幸福を得るかということが、私たちに与えられた任務であり、望みであると思います。「明日を造る、21世紀を担う」といわれる私達中学生。私たちは、人間としての理想を求めて、複雑きわまるこの社会をどうきり開き、生きぬけばよいのか。バイロンという詩人はこう言っています。「我々の青春の日々は栄光への道だ」これはきっと、若者はすべて希望に満ちあふれその希望に向ってしっかりと心をきめ、それにつき進んでいく不屈の魂をつくりあげていくことだと私は思います。
私は今まで生徒会副会長という仕事をやってきました。名誉あるはれやかな道だと思っていましたが、そうではありませんでした。卓球部長と生徒会副会長を兼任している私には毎日毎日が、時間におわれ、忙しい日々でした。卓球部長をやっている責任上、こう輩の指導や部員をまとめていくために、ガミガミどなり、尻をたたいたりもしました。私は、そんなことは全くやりたくなかった。でも私は、心を鬼にして、「ここでしごかなければ」という思いでやってきました。そのために部員からきらわれ、仲間はずれにされたこともありました。私はそのたびに、悲しみのどん底につきおとされ、部員の恨みの声が頭に浮んできました。「部もろくに来ないくせに何が部長だいばるな」と。
私も毎日部に行って皆といっしょに活動したかった。でも、生徒会副会長という任務が私をしばりつけて離さなかったのです。 「もう卓球部長なんかいやだ、やめてしまいたい」と何度も思い、実際にやめようとした、こともいく度かありました。しかし、そのたびに私は自分の心に強く言い続けました。 「いつか部員もわかってくれる日が来る。これも経験だ、自分をより大きく育てあげていく原動力になるのだ。だから、だからもっと頑張ってみよう。自分をより強く、正しく築きあげるため。大きな人生の前に、これ位でへこたれてなるものか」
すべての技をなし、部活動を終えた今、私は、卓球部長を続けてよかった。という充実感でいっぱいです。幸福なのです。
私は、そういうこととは又違う幸福もあるということを知りました。生徒会長に立候補し、18票差という厳正なる開票結果のもとに涙をのんだ不幸の裏に言葉では現せない幸福感があったのです。222名の皆さんが私を支持してくれた。これは何とも言えない私の最大の喜びでした。落選したとはいえ、自分1人の孤独な勝利者でいられたということは事実であり、私だけの幸福感にひたっていたのも事実です。
私たちには、皆それぞれ自分の歩むべき道があります。しかし、その道がどんな道だか、だれも知らない。だが私たちは、理想の世界を求めて1歩、1歩、歩み続けなければなりません。歩くのです。そこに私たちの幸せがあることを信じて。