沖縄の経済政策を考えてみると、どちらかというと戦後の、いわゆる軍作業形態の経済から復帰の好景気、そして現在の不況時代と変遷してきている。その間の沖縄の農業は、見すてられがちな立場におかれてきた。本土では〃三ちゃん農業〃ということばがあったが、沖縄はむしろそれよりも悪条件の下で農業が細々となされてきた。沖縄の基幹産業といえば、何としてもサトウキビとパイナップルだが、佐敷村ではサトウキビが主体である。佐敷村というところは、土壌は割に肥沃であるが、残念なことに耕地面積が狭い。したがって、ほとんどが兼業の形態をとっている。村では、いま農業振興計画をつくっているが、そのプランによると、昭和49年現在の農家戸数が823戸、うち専業農家は74戸であるが、将来は250戸を専業農家にしようということになっている。ところが、いろいろ考えてみると、専業といっても、耕地は狭いし、また需要と供給をみると心細くなってくる。そこで“土に取りくむ”5人の若者たちにこれからの農業問題についていろいろ語ってもらった。
土と共に生きる
【宮城】現在の農業形態をみると、サトウキビ一辺倒といった、保守的な体質をもっている。それが、将来の農業政策として適当であるかどうか、もし、よくないなら蔬菜、畜産、あるいは花卉といった、いろいろなものがでてくる。そのような模索した農業社会の中で、皆さんは高校を卒業し、また社会で得た体験から、自らを「土と共に生きる」といった、ひとつの人生の方向を見つけ出そうとしている。
おそらく皆さんはまだ二十代でありながら、悩みを持ち、あるいは不安、希望の交錯する中で“土”にとり悩んでいると思う。それ自体、いかにも若者らしく、自分の人生を生き抜こうとする態度こそ、実に美しく、尊いものであると者える。
そこで、なぜ土に愛着を覚えたのか、現在どんな悩みをもち、よろこびを感じているのか、さらに将来の自分をどう見つめているのか、将来の農業政策はどうあるべきか-などについて、お話をお伺いしたい。
【真栄城】やっぱり異端である。親が農業をやっておらず、耕地もないし、農協にも準組合員としてしか登録されていない。その中で土が好きでたまらず、私は子供のときから土いじりが好きで、クロトンを植えたりしていたので中学でも高校でも趣味をのばしてきた。農林高校に行かなかったのは、将来趣味を生かすには、ある程度の教養がないといけないし、一般的な見方を養うためには、どうしても、普通高校を出なければならないと思ったからである。それでいったん南九州大学に進学したが、物足りなくて中退し、直接自分でやってみることにした。
今更ながら農林学校に学べなかったことを後悔している。
豊見城高校では、花卉園芸はクラブをつくったが、おそらく普通高校でははじめてではないかと思う。大学にも僕自身は行く気はなかった。大学で、強くなったのは口先だけで実践はともなわない。将来は一人で三千坪ほどの耕地をもたないとどうにもならない。
出荷は4Hクラブの即売組合を通してやっている。即売は那覇の組合だと、納入金など高すぎて個人で細々とやっている者には参加もできない。まず実績をつくることが先決となってくる。
【屋比久(吉)】私はハウス内で250坪をもち、バラ裁培をし、出荷は9月から6月までにしている。前から花で仕事ができたらいいな、と考えて花をつくるために神奈川で究修したが、切り花としてバラが好きで、その道を選んだ。資金面やら何やらしても自営するには農業がよいと思った。販売ルートの研究などをしているうちに、ますます自分には農業以外にやるものはないと信じるようになった。
【玉寄】私は半年間研修をやってみて観葉より野菜の方がよいと信じるようになった。愛知県でいろいろ学び、帰ってきて3年間は野菜をつくり、将来はもっと土地を拡大したいと思っている。今の700坪では少なすぎる。これだけでは不十分である。
【平田】私も愛知県で研修し、いま洋ランをつくるために80坪と、家の方に9坪の温室をもっているが、いまのところ四Hクラブの卸売と、南農卒業生でつくっている南農農友会の組合、南農での展示会などで売っているが年に2、3回出している。計画では4、5回だが―。私の畑は90坪だが、一人で200坪はやらないと生活できない。2、3年後には、それだけ確保したい。2、3年前まではランも少なかったが、いまは業者が多くなって、他県から苗をとり寄せ、逆に輸出している。
【屋比久(保))私も蔬菜裁培をしている。前は観葉もやっていたが。いまは蔬菜だけにとり組んでいる。どうしても金まわりの面から。3カ月ほどでとれる野菜がよい。年間収入は、はっきりしないが、目標としては一日一万円程度にしている。それだけなれば生活できる。
【平田】私は収入は、すべて苗講入に行ってしまっている。これからというところだ。
【玉寄】日に一万円がやはり目標である。
【屋比久(吉)】まだ実績はないが、これからの農業としては、資材などを講入して。年間4、5百万円から1千万円程度。目標がないとやっていけない。あと5年経つといまの10倍ということに一応メドをたてている。
【真栄城】4百万円ほどをあげて資材その他の拡張を検討している最中である。
【宮城】それだけでの収入によって、必要経費を差し引いても、他の官庁や会社のサラリーマンなどに比べて見通しは明るいと思うが。
【真栄城】希望通りはいかないが、最低限があって、それをこなせば、市場を獲保することが問題になる。とにかく自分の好きな仕事であるから、ある程度のことはできる。サラリーマンのように、上からも下からもしごかれる仕事に比べてやり甲斐がある。要するに本人のやる気の問題だ。月給20万円程度のサラリーマンなら、僕は農業を選ぶ。
【宮城】将来、農業で生計がたてられないといくら好きでも行き詰まってしまう。やはり皆さんの話をきくと、それなりの根拠をちゃんと持っている。2、3百坪から1000坪の土地ではあっても明るい見通しがあるように思える。そこで実際にやってみて、どのような悩みや楽しみ、苦労があったか、体験をききたい。
【宮比久(保)】うれしいことといえば、自分で作ったものがよく売れること。たとえば夏野菜を冬に作って当たると思っていたのに業者の競合で売れないときは、本当に困ってしまう。
蔬菜は時季的なものであるが、大体の農家はそれを考えていると思う。一辺にかち合うと安くなるので、年間通して同じようにいけるようにするのが理想的だ。例えば生産組合のようなものをつくって計画性をもつことが大切だ。
【平田】一度にがい経験がある。
ランをつくって一年ほどたった冬場であったが、最低4度まで下った寒さだった。石油ストーブを入れていたら、200鉢ほどがストーブの故障でダメにしてしまった。
花は美しい。また美しい生命をもっている。ランは直射光線が悪いし、水のかけ具合い、消毒などに気をつかう。
暑いのも寒いのもいけない。適温を25度ぐらいに保った方がよい。その意味で本土では10月の上旬から4月、5月までが適期だが、沖縄では1月、2月を暖房すればよい。需要は本土の方が多いので、航空賃などを含めると、条件は本土に似てくる。
【玉寄】蔬菜も本土出荷を考えているが、沖縄でももっと需要をふやす必要がある。本土からも蔬菜が入荷するが、それは安いからだ。その意味でもっと改革する研究が欲しい。
【屋比久(吉)】裁培技術というのは、2、3年でできるものではない。バラでも最低10年はかかる。私も10年後は相当の技術が向上すると思うが-。もうひとつ、バラは台風に弱いので施設の確保が先決だ。大資金が必要だがうまくいかない。村あたりでも考えてくれたらいいと思う。いま本土から茅つぎのものがはいってきているが、沖縄でもやってみたい。
バラにも流行があって、前は大輪がもてたが、いまはミニチュアか流行している。ベビーローズとかいって、人間のファッションのように、好みが変わってくる。どっちも同じ値段だが、育てるには小さい方が二倍、三倍やりやすい。病気もいろいろあるが、とくに黄色の、あのクリーム色の花は、水の量が多かったりすると色がおかしくなる。沖縄は高温多湿で、どっちかと言えば病気にかかりやすい。
従来バラ色などということばもあるが、バラには外国にもいろいろあってそれだけ色も豊富である。ただ外国産のはタックスがついてきて、高くつくことになる。
切り花裁培というのは、本根があっての上に裁培もできる。よく切れて品質がよい、ということで区別される。品質によってはフランスとかオランダなどのものがよい世界的に交流されているので、世界的に共通したものがある。
【真栄城】花卉園芸を裁培して面白いといえば、趣味でやっているので当然だが、苦しいとかいうよりもひきつけられてはいっている。だから、それだけのものを持たなければならない。いま玉寄君と二人で話しているのだけれども、本士への出荷を考えている。
本土との差をなくすための努力は大切である。
ただ、日本では薬品を使いすぎる。一つの虫について三つの薬をつかうし、12の虫に30余りの薬をつかう、消費者が不買運動をおこせば。薬品の使いすぎはなくなると思うが、売る方は薬をなるべく使わないようにしているが、薬を使わないと、当然単価が高くつく。
野菜は本土ものは見かけは大きいが、養栄価値は少ない。なぜかと言えば、紫外線の少い地方では、それだけ吸収された栄養価も落ちるということになるからだ。
紫外線を無理したハウス栽培下は、どうしても自然の下に育った野菜より栄養価が少くなる。
すでに具志頭村あたりでは、薬品障害がでている。生れた子が難聴児だったりする。これは大きな問題で、これをどう改善していくか、県の農業政策には出てこない。これは米作にしても麦作にしても同じで、国の段階でさえ、はっきり改革案か出ていない。いま、ミカンなどの営利生産が出ているが、将来は不十分だ。玉寄君と話し合っているところだが、ある村で聞いた話で、何人かのグループで作物をつくり、経済連の市場にもっていって市価の2分の1か3分の1で売って、その暴落状態をみて正確に価値を安定価にすることができる。この沖縄の市場に出すのは2、3か町村の作でまかなえるもので、将来は他の市町村の農業は、本土の冬場に出す野菜をつく。12月から3月をねらえばよいので、そこに出荷の焦点がくる。それが夏菜となると、今度はウリミバエなどの病害虫の問題となる。このあいだ、四Hクラブでも話に出たが、本土から無条件にはいるのに、なぜ沖縄から出せないのか、沖縄に入る分を規制する方法はないかということだったが、残念ながら、いまの農業政策にはそれがない。
病害虫の予防にしても、無制限のまま本土に出すとなれば沖縄の恥になる。防止には相当の金がかかる。
まず月分らで共同出荷の形をとり、品目を限定して、自分らで納得のいくようにしたい。そこで、市場の状態をよく観察し、卸セリの品月を制定しなければ、いまの段階ではムリだ。下部に苗を奨励する政策はよいとしも、出荷を考えないと、どうして生産が向上できるか、疑問である。
【宮城】これは、日本全体としても言えることだが、あの米作奨励のあとにきた制限、また最近になって奨励するといった、農業無策のようなことが行われてきた。
その前に、農薬の問題があるが、そ菜の場合、PCB公害などが出ているが、どう考えるか。勿論、ある程度農薬は使わないといけないだろうが、人体に悪影響を及ぼすことになるといけない。
【屋比久(保)】農薬は使わない方がよいけれども、それを使わないと売れない。消費者も、虫のついていないきれいに見える野菜を買っていくのだからー。しかし、農薬はなるべく使わない方がよいけれども、どうしても使わないといけない場合もでてくる。第一消費者の好みもあるのだから、仕方ない面もある。
【宮城】以前はよく、市場で野菜を買うとき、虫の食っていない野菜は危険で、多少食いあとのあるものが安全だという話もあったが、どうだろう。買う例としては、農薬をどういう風に使っているかわからない。これはどうしても生産者側の良識ということにかかってくる。
【屋比久(吉)】そういう農薬問題は、完全に使わないというのは無理だから、量を減らすということにしかならないだろう。
【真栄城】従来の農薬の使用量を半分に減らすといった工夫は必要と思う。たとえば福岡や山形の町に団地があって、農薬の使用等を県が指定し、消費者に配る。時には、消費者をその農業団地に招待して、どのような方法で、どのような薬品を使っているかをみてもらう。相互理解の下に野菜をつくっているわけだ。これはひとつの理想だが、沖縄では農薬を使っている野菜しか売れない。農薬を使わない、いい野菜は売れない。
これは四Hクラブなどで検討する必要がある。
【宮城】薬をまったく使わないということは不可能だが、どうしても人体に悪影響を与えない分量の使用というのは考えなくてはなるまい。農薬規制に対する各国の基準はばらばらだが、台湾とか東南アジアなどの開発途上国の場合は割にゆるい。そこで、日本から農薬を買って果実や野菜をつくり、それを日本へ逆輸入するという現象がでてきた。国内では使えなくても、国外では使えるものもでてくるわけで、何か基本的な理念の欠如があるような気さえする。
そこで、沖縄の基幹産業といわれるサトウキビやパイナップルだが、私たちの佐敷村ではサトウキビをつくっている。その生産者価格は、毎年の政治折衝を重ねており、今年はトン当たり1万8千円と決まったものの、農家は「2万1千円でないと引き合わない」と不満を述べている。このような現状からみて、サトウキビの将来性についてどう考えるか。
【平田】沖縄の基幹産業はサトウキビだが、農地整理をしない限り、いつまでも“三ちゃん農業”の域を出ないのではないか。
【宮城】いま、村の総合計画の中にも耕地整理の問題が出ているが、実際の問題として、どうもむずかしいものがある。サトウキビのことだが、私はそれほど明るい見通しはつけられないような気がする。国内では北海道のテンサイ糖があり、また外国では台湾や東南アジアでも沖縄より低いコストで砂糖をつくっている。どうしても国の保護策がないと太刀討ちできないのである。いつまでもその特別措置だけを頼りにするだけでは、どうにもなるまい。毎年陳情、折衝をくり返していくのは、ある意味では悲劇でもある。
ただ、国や県の政策の中には、まだまだサトウキビ一辺倒の考え方が強い。それに代るべきものが出ていない。それを、どう考えているか。
【屋比久(吉)】沖縄が今後サトウキビだけでやっていけるは思えない。何かの転換をはからない限り、農家の苦悩は消えないのではないか。
【玉寄】佐敷村は土質がよすぎて、サトウキビだけに頼っているが、やはり不安がある。
【宮城】終戦直後は、自給的な意味もあって、しきりに水稲が奨励され、耕地はほとんど水田となった。ところが、その後に本土から米がはいるようになり、またカナダ、濠州からも入荷できるようになると、水稲はあまり見込みがなくなった。その後におこったのがパイン、サトウキビだが、沖縄の場合、水稲は二期作、あるいは早稲の三期作も可能ではあっても、残念なことに米の質が本土米に及ばない。そのようなことで、水稲に見切りをつけた農家が、サトウキビに精出している。もちろん、その裏には本土の米の農作、余剰米の処理の問題も含まれているわけだが―。
そのサトウキビにしても、5、6年いや、10年近くも古株だけを守っているところがある。NCOという種類は、その意味で重宝な品種ではあるが、古株ばかり守っていては農業の改善もできるはずはない、県や村の奨励も、なかなか農民の耳には届かない。
【真栄城】佐敷村は重粘土の土質でよすぎるために、逆に考えるとサトウキビ以外は何もつくらないという体質ができてしまった。実際は土質を科学的に分折すると、チッソ分がふえて肥料分は少ない。だからキビだけはよくできるが他の作物はよくできない。それからすると昔の輪作時代がかえってよかった。十年放っていても古株が出せるような状態だと、もはや品種改良の余地はない。中途半端な考えで基幹産業といったところで、どうにもならない。
村内には土地の放置が目立つが、これは周囲が客土して上げてしまうと、もとの水田地帯などは、もう畑として使えなくなる。
その土地をどうにかして活用させる農業政策がないような感じがする。
【宮城】いま佐敷では前向きの姿勢で総合計画、基本構想の策定にとり組んでいるが、その中に「本村においてはサトウキビが作付面積の97パーセントを占めており、今後もサトウキビを主軸として育成する」という意味のことがあり、また「野菜の作付面積を大幅にふやしていくことが考えられよう」という一文がある。これはまだ検討の段階で、これから煮つめていかないといけないが、いずれにせよ、村がこうして長期プランをつくろうとする積極性に対し、村民とくに農業にいそしむ農家の人びとも関心を払ってもらいたいと思う。
【屋比久(吉)】野菜とかの部門で実績を高めながら認識を与えながら転換を考えないとついていかないのではないか。
【宮城】若い人たちが結成している四Hクラブというのがあるが、その組織の方向などについて、お伺いしたい。今後四Hクラブには皆さん5人の若い人たちが加わっているが、どう育てていけばよいかー。
【屋比久(保)】やはり会員が村内で10人ほどにはふやしたい。多くの若者が参加するよう呼びかけたい。
【真栄城】四Hクラブは若い人たちの集団であるが、単に農業関係だけの集団にとどめてはならない。
【屋比久(吉)】今後の農業のあり方について考えると、今までのような考えではなく、みんなが多方面にわたる活動を、この四Hクラブを通してやるような方向づけが大切ではないだろうか。
【玉寄】四Hクラブは勉強もできるし、また話し合いもできるたのしい集いにしたい。
【屋比久(保)】佐敷村でも四Hクラブを発展させたい。入会する条件としては、土を愛し、働く若い男性も女性も、どんどん加わってもらいたい。
【宮城】農家というのは、もともと保守的な体質が強くて、簡単には切りかえないといった面がある。従来農業をやるのはホワイトカラーになれないのが売れ残って農業をやるのだといった間違った考え方が根強い。いまでもその体質はあるのではないか。これも農業改革をやる上で支障になっている。その意味で、今後の若い皆さんの自らの体験を通して農業の革新というのは重要な意義をもってくるはずである。
【屋比久(保)】今後の農業政策について昭和51年度への希望といえば、何としても耕地整理ではないか。農道はつくっているが排水溝がない。これでは畑の活用が十分ではない。
【平田】若い農業委員を確保して、少しでもよいから進歩する農業を考える以外にない。
【玉寄】自らの経験と実績を積んではじめて農業政策は生れてくる。土地が散ってはどうにもならないし、その辺から考えていく以外にないと思う。
【屋比久(吉)】一番要求したいのは、農業近代化だ。資金面についても若い農業者への援助を考えてほしい。農業奨励金のような形で、考えてもらいたい。そうすれば皆の希望も二倍、三倍となっていくだろう。いま近代化資金はあるが、利子も年々上昇してくるので、もっと受けやすい態勢が必要ではないだろうか。
【真栄城】農協の種苗が生えるとか、生えないとかいった声をきくが、新種の入荷のとき缶結でくるのがある。最初にきたのは生えるがあとは古くなって生えない。住民はその事情をよく知らないので、とても困る。農協自体で、この内容についてよく農民に知らすことに、あまり努力を払っていない。農園とか苗の育成についても、地域にはいり込んで実際の指導や話し合いが欲しい。
【宮城】たしかに、いろいろと具体的に検討していくと、問題が沢山でてくる。それは当然村の農業政策、あるいはお互いの組合である農協でも真剣に耳を傾けてもらいたいと思う。昭和51年は、全国的に不況ムードの中で迎える結果となり、またや地方財政のひっ迫といった悪条件下にあるわけだが、何としても農業政策というのは村の重要な課題となってこなければならない。今後、佐敷村が、皆様の若い力を主軸にして、ますます発展し、昭和51年が、村の発展飛躍の年になることを祈りながら、この座談会を終りたい。
出席者(順不同敬称略)
屋比久保広(23才)
昭和46年南部農林高校卒業。昭和48年3月まで大阪府八尾市、天理植物園で研修。同年4月帰郷、主としてそ野菜裁培を中心に500坪を経営している。
平田辰雄(23才)
昭和46年南部農林高校卒業。昭和48年3月まで愛知県豊橋市、豊橋洋ラン園で研修。同年4月帰郷、このほど82坪の鉄骨ファイロン温室が完成、洋ランの温室裁培にとりくんでいる。
真栄城守利(24才)
昭和45年豊見城高校卒業。同年、南九州大学園芸学部園芸学科へ進学、昭和47年中退。その後帰郷、花卉園芸、そ野菜を中心に800坪を経営している。
屋比久吉光(25才)
昭和44年南部農林高校卒業。昭和48年神奈川県立神奈川農学校卒業。
昭和48年、ハワイ・ハワイアンフラワーエクスポートで研修のため渡米。昭和49年帰郷、バラ裁培にうちこんでいる。
玉寄兼夫(21才)
昭和48年南部農林高校卒業。同年11月まで、愛知県豊橋市、大十園で研修。その後帰郷そ野菜を中心に700坪を経営している。
司会 宮城鷹夫 佐敷村総合計画審議委員