祖先が育てた文化財 今後は毎年11月に実施
昨年11月17日に、佐敷小学校体育館で催した「第1回、佐敷村文化まつり」は、無形文化財と民俗芸能発表会、民芸と民具展示会に分けて、かつてない盛況であった。民俗芸能部門では、各字に残る伝統的な催しから、戦後に習い覚えた演技など、実に多彩なプログラムによって、会場いっぱいに詰めかけた1千人の観衆を魅了した。とくに、本部流、小林寺流、剛柔流各派の空手出演で花を添えたのも、人びとに感動を与えた。また、民芸と民具部門では、普天間敏氏所蔵の、数十点にのぼる品々が、参観者の目を引き、宮城要二郎氏の民具も関心を集めた。真栄城勇氏出品の芭蕉布、紺地、久米島紬、蚕のマユなどにまじって、昔の女性のハカマ(下衣・芭蕉布)も、時代の流れを示すものとして注目された。それに、那覇の又吉真栄氏(文化財技能保特者)が、三味線の古い型「南風系」「久葉の骨」「久場春殿」「与那」「江戸与那」などを特別出品し、昭和開鐘といわれる「マテーシー千鳥」(宮城鷹夫氏所有)が、愛好者だけでなく一般の目をみはらせた。次はプログラムのあらまし。
古典音楽合唱(かぎやで風、辺野喜節、こてい節)
野村流松村統絃会佐敷支部の出演で、さすがに宮城嗣周氏指導による声の調和、三味線の音色の美しさがすばらしかった。玉城源造師匠の「古典音楽技能保持者」としての県指定もひろうされた。
ミルク節(字兼久)
世果報を願い、豊年万作を祝う歌と踊りで、戦後、兼久の字でよく踊られたという。出演は婦人会の皆さんで、奥間邑繁さんの三味線と、宮城春保さんの太鼓がリズミカルに調和していた。
貫花踊り(字小谷)
貫花踊りは、玉城盛重翁が古典貫花(大貫花)からアレンジして近代調にまとめたもので、祝座敷などで好んで踊られる。小谷の婦人会では、小ずか2週間ぐらい練習を重ねてきれいに踊った。
汗水節(字新里)
例の「汗水ゆ流ち、働らちゅる人や……」の曲にのせて、農村らしい振り付けで踊る。新里では、いつの時代からか、この踊りを好んで踊り、いわば伝統のようになっている。
手登根の臼太鼓(字手登根)
手登根の臼太鼓は「歌が重い」といわれるほど、節まわしがむずかしい、なかなか歌われず、したがって踊りも大正8年以来すっかり途絶えていた。それを、歌は池原さかえさんが、寝たきりの病身にもかかわらず全部歌い上げて録音した。踊り手は、これまた宮里トシさんが昔習い覚えたものを想い起しながら完全な形で若い人たちに伝授した。そのほか嘉数カメ、平田ウサさんら、ご老人たちが全面的に協力して、失いかけた大事な文化財の復活に成功したものである。歌詞も踊りも、独特の美しさをもち、本来なら1時間以上もかかるのを舞台の都合で1番から8番までの各前半だけに限って上演した。
剛柔流空手 (字津波古 嶺井南康道場)
(三戦、制引戦、三太組手、六本組手)
字津波古 嶺井南康道場の出演で、故宮城長順師の創始による那覇手の特色をよく演武して大衆を魅了した。とくに「三戦」による体の線の美しさがすばらしく、剛柔流独特の演武。
仲順流れ(字新里)
年老いた翁が3人の息子を1人づつ呼び出して孝養をせまるという物語の歌劇で、
これも長く踊られなかったのを、字の古老たちが集まって若い人に伝授した。翁に扮した宮城寛之氏の好演もさることながら、勢理客徳助氏ら三組の夫婦が、そのまま長男、二男、三男夫婦として演じて渇栄をあびた。明治以後から新里に伝わるという。
八重山ミルク節 (字仲伊保)
戦後、仲伊保の村遊びでよく踊られたもので、字婦人会が手を合わせて美しく踊った。庶民的な踊りだけに、拍子も面白く、地謡の小波津正信氏らの演奏がよくマッチしていた。
小林寺流空手 (字佐敷 平良康高道場)
種目は「アーナンクー」 「五十四歩」 「チントウ」の三種で、昔から喜屋武朝徳師(チャンミー小)の手として有名である。字佐敷の若者たちが力いっぱい演ずる姿は、観覧者にたのもしさを与えた。とくに平良康高氏の「徳嶺の棍」は棒術のすばらしさを遺憾なく発揮した。
あやぐ(字佐敷)
もともと宮古民謡で「道の美らさや仮屋の前、あやぐの美らさや宮古のあやぐ」の歌同と曲の美しさは、沖縄の人びとの心情にぴたり。婦人会員だけの踊りではあったが、これも今では字佐敷の名物として受け継がれている。
獅子舞(字津波古)
津波古の獅子舞の特色は、ゆったりした動作の中に、獅子の舞の線のなだらかなことと、獅子使いの手の変化にある。この獅子は戦後いち早く作ったもので、戦前のものに近い姿になっている。獅子面も、戦後作とは思われないほどよくできている。山城歓吉、山城俊一両氏のコンビがよかった。
馬山川(字富祖崎)
素人ながら、どうしてあれだけのすばらしい踊りができたのか、多くの村民が目を見張った。もともと、「琉舞紫の会」 (島袋光裕帥匠)の得意であるが、富祖崎婦人会の息の合うところは、決して専門の舞踊家に負けないできばえであった。
組棒(字津波古)
さすがに大阪万博や、沖縄タイムス沖展のアトラクションにも出演しただけあって、一人俸から二人棒、三人棒、四人棒、五人棒と、勇壮な古武術を思わせるでぎばえでなった。
津波古では、伝統の芸能として戦後いち早く伝承者づくりに精出している。
組踊「手水の縁」の間のもの(字伊原)
手水の緑は、安謝の処刑台の露と消えた日本文学者平敷屋朝敏の作だが、この「間のもの」は、明治20年代に宇良小ターリーという人が伊原に伝え、昭和3年に演じたままになっていた。崎間とヒジ田ー(比嘉)の対話が面白い。
間のものには、組踊の内容をかいつまんで説明するもので、なかなか文学的な表現をとりながら、ユーモアを含ませたところに特色がある。
組踊「阿波根」(字手登根)
幼なくして両親に先立たれた姉弟が、鬼にさらわれるところを若主に助けられて戻るまでを「すき節」「七尺節」「散山節」「東江節」「カンキヤイ節」にのせて物語る。同糸のものが先島にもあるが内容は違う。手登根独特のものといわれ、供主の玉城源裕、供の仲村良明、仲村武雄、鬼の呉屋新太郎氏らの好演もさることながら、中学三年生の喜納春美、小学生の平田裕子さんらの演技が人目をひいた。とくに字区長で多忙な呉屋氏が、自ら進んで出演したことは、字民から深く感謝されている。指導には宮里寛一、平田沢益氏ら古老があたった。
本部流の手(本部流古武術協会尚道館)
首里本部御殿秘伝の武術で、元手から俸とり、トラファー、剣、尺棒、エーク、打俸と、さすがに秘伝といわれるだけに、すばらいい技をひろうした。奥の手は、「舞いの手」で、これはとくに上原清吉士範指導のもとに、教士、練士級の人のみに伝わるだけ。
国頭さばくい(字新里)
ヨイシー、ヨイシーのかけ声で踊る二人の若者の手には、どこか空手を思いおこさせるものがある。新里では、昔から伝わるという。他に例をみない独特なもので、古老たちの指導によって、今回復活をみたすばらしい民俗芸能である。
ティンベーと鎌の手(字屋比久)
楯と刀の戦いがティンペーで、草苅鎌と俸の戦いが鎌の手。
戦前から棒巻き踊りとともに屋比久の得意とするもので、今回は知念孝明、西銘健の両氏がティンベーを使い、宮城徳松、宮城春雄の両氏が鎌の手を便った。
高平良万歳(字佐敷)
組踊「万歳敵討」の謝名の子、慶運坊兄弟が親の仇を高平良御銷を小湾浜で討つまでの道行き。承太郎姿に身をやっして口説から万歳かふす、うふんーゃり節、さいんする節の曲にのせて、照喜名朝福氏がみごとに踊った。
松竹梅(字津波古)
明治40年ごろ、玉城盛重氏が振りつけたもので、明治45年に鶴亀が加わって現在の形となった。どこでも踊られるおめでたい踊り。
手登根のエイサー(字手登根)
エイサーは中部で盛んで、南部では手登根以外は、多分にないといわれる。 (ただ、戦後に踊るようになったところもあるが)。これは「南無阿弥陀仏」をくり返す、まったく独特なもので、その支化財的価値については、九学会の人びとも高く評価している。
文化創造への起点 宮城鷹夫
たしか、一昨年の秋だったと思うが「九学会」という沖縄民俗調査団とともに、佐敷村内の民俗芸能を調べたことがある。
大体のことは知っているつもりだったが、各字の古老たちの話を聞いていると、今さらのように、その豊富さにおどろかされた。たとえば字津波吉の「天人の舞」 (アーマンチュー)、手登根の「シンジュー節」、外間の「京太郎」、屋比久の「獅子舞」など、くわしく調べれば調べるほど、実に根が深く、興昧がわいてくるのである。一見、何の変哲もない村里に、ひっそりと収められていた民俗芸能の数々は、私たちの心を大きくとらえてはなさなかった。
なるほど、屏風に囲まれたような美しい佐敷村には、尚巴志王以来、いや、それ以前から高尚な歴史の中で育くまれてきた文化が、なお脈々と人びとの心の底に流れている。この、秘められた民俗文化にこそ、本当の佐敷村の美しさがあったという感を深くしたものである。
ところが、こうした伝統が、いつしか近代のとげとげしい波に洗われて、腐蝕作用をおこしはじめている。中には、単に老人たちの語り草でしか生きていないものがある。
それを知ったとき、私は言うに言われない焦燥感にかられた祖先たちが大切に育ててきた貴重な遺産を、滅亡に追い込むとすればそれは現代の佐敷村民の大きな罪である。つねに村民の心と結びついていなければならない文化遺産を知らないままに次代を担う小供たちが育っていくということは人の心を大切にする教育にとっても、マイナスとなる。
そこで、急拠村又化財保護委員会で計画し、実施したのが、昨年11月17日に佐敷小学校体育館で催した「第1回・佐敷村文化まつり」である。これには各字とも全面的な協力を惜しまなかった。そのできばえは、村民各位が評価して下さった通りである。55年ぶりに復活した「臼太鼓」、50年目に舞台で花を咲かせた「組踊」、40年も過ぎていたのに色があせなかった「国頭さばくい」 「仲順流れ」、文化財として内外に認められた「組棒」など、その他、どの種目をとってみても、村民の血が生き生きと脈打つものばかりであった。
それにしても、一部の種目が、まったく復元できぬまま、遂に上演できなかったのが残である。おそらく、今回の催しが1年のび2年のびしていたら、もっと村民の忘却の彼方に没し去っていたに違いない。わずか3カ月の準備で出演者や各字有志には申しわけなかったけれども、実現してよかったと考えている。
私たちは、このすばらしい「佐敷村文化まつり」を、毎年の定例行事として定着させ、更に発展させるべく構想を練っている。今後とも郷土文化を正しく継承していくために、村民のご協力をお願いするとともに、技能保持者各位のご精進を祈り、また各字が自ら誇る芸能を一層大切にしてもらうことを、切にお願いしたい。
(佐敷村文化財保護委員)