三山分立時代までの佐敷は「佐鋪」と呼んでいた。いつごろから「佐敷」というようになったかは定かでない。その牧民の長を「佐敷の小按司」といった。身長五尺に足りないが、知恵は神のようで才気煥発、だからこそ北山・南山を討って中山王にまでなれた。主席選挙や知事選挙に勝って主席、知事になったようなものである。
三山統一後に間切制が布かれた間切とは、いまの村であり、村がいまの字である。
佐敷間切の行政区画は、七カ村で構成されていた。屋比久・手登根・与那嶺・佐敷・平田・苗代・中尾であった。この七カ村を間切構成の基盤として、後世つぎつぎと分村していく。
まづお隣りの大里間切から新里・小谷・津波古の三村を削って佐敷間切に編入し、さらに外間という新村をつくった。これで十一カ村、ところが、あとでまた苗代と中尾の二村を廃止したので九カ村となった。廃村となった中尾村はいまの新里の小字名合原にあった。苗代村は字佐敷の小字苗代原の趾にあった。
明治41年(西暦1908年)に間切制が撤廃され、間切は村、村は字になった。ここでまた区画整理があり、新しい字に富祖崎が誕生する。富祖崎は、平田・屋比久・佐敷から削ってつくった。仲伊保も手登根・平田・屋比久から少しづつぶんどって新字になったもの。
これで旧十一力村になるべき筈だが、与那嶺が佐敷に、外間が屋比久に、平田が手登根に吸収合併され、八力字になった。津波古、小谷・新里・佐敷・手登根・屋比久・冨祖崎・仲伊保である。この年に手登根の底川は知念村にもっていかれた。
逆に知念村にあったイフントウ屋取(伊原)を屋比久に吸収した。
大正11年(1922年)屋比久から飛び出した新字を屋比久第二区といい、これが戦後の伊原となった。あぶれ字は他にもある。
兼久がそうだ。昭和の初期に佐敷から分離して、戦後字兼久になった。
昭和18年に手登根が分裂症状を起して一区、二区に分かれたが戦後、また元のサヤにおさまった昭和23年6月に外間が屋比久から分離して外間区になり、同じ年に、字津波古が馬天と名を変えた。
以上が旧藩時代からの部落の変遷のあらましである。それ以前の行政史は確かな資料がなく、不明であるが、制度的には、西暦1500年尚真王時代に、按司掟の制度が設けられたが、1611年(慶長16年)に、尚寧王が薩摩の人質を釈放され、帰国してからこの制度は廃され、地頭代(村長)がおかれた。按司掟は中央から派遣された座 敷官であったが、地頭代は、地方の豪族を採用した。第二尚氏の尚敬王の世になってから、佐敷は王妃の直轄領となったので、王妃を呼ぶのに「佐敷按司加那志」といった。首里城内の美福門の前に王妃の館が新設され佐敷御殿(ウドン)といわれた。
村役所の前身は、「番所」といい、のちには村役場になったが、現在の村役場の西隣り
津波友次郎氏宅が下知役の詰所となった。
下知役は、夫地頭(フジトウ)と共に、地頭代と間切人民との中間にあって、周旋や民治を円滑にはかる補助機関で、現在の株式会社の役員と社員の間にある中間管理職みたいな職務である。
明治41年には間切制の廃止と共に沖縄県島嶼町村制が布かれ間切長は村長に、村頭は区長と改称された。
廃藩当時からの地頭代職は次のとおりであった。
与那嶺正清、与那嶺隼太、玉城集一、与那嶺盛一の各氏。
歴代の間切長は、初代与那嶺盛一、二代津波常助の両氏。
明治以降現在までの歴代村長は次のとおり。
初代津波常助、平良亀助、山城新吉、宮城国吉、宮城松助、平良弘、宮城徳清、同人、
瀬底正行、屋比久孟徳、平良亀造、嶺井稔、渡名喜元秀、津波元八、瀬底正八、当真嗣善、外間長賢、渡名喜元尊、19代山城時正の各氏。