私たち本土視察研修団の視察報告につきましては、その一部を去った1月1日づけ広報に掲載しましたが紙面の都合で未報告分がありましたので報告します。ご了承願います。
岐阜県大垣市 大垣南農協機械化営農組合
我が調査団一行5名は1967年10月24日午前9時岐阜県議会事務局を訪問した。
同事務局次長杉山実氏等に心よく迎えられ色々と挨拶と懇談を交わし合った。事務局の御計いで大垣南農協に連絡してもらい又乗用車迄も準備してもらった。車を走らせ約一時間で目的地の大垣南農協に着いたのが午前10時半で農協長の林仁七氏が待って居られた。
一行は小会議室に案内され正午迄組合長の説明を熱心に聞き午後は現地の多芸町にある機械化営農につき実際に見聞することが出来た。
営農組合の概要
岐阜県の西部に位置する大垣市多芸島町にありそこの有志達が1963年4月申合せに依り営農組合を組織して居る。
事業開始以来四年になるが是に参加する農家戸数も次第に多くなり今や131戸が此の営農組合に入って居る。
農機具機械は大垣市や岐阜県庁等の補助に依り農協が設備し機械化営農組合は農協から機械を借り受けて事業を行うものであり参加農家への利益配分方法は全収獲高売上米代から機械設備及農機具等の利用料金、肥料農薬等の資材費及基幹要員8名の人件費等を差引き残りを請負い面積に応じて配分される。
又事業推進に伴う関係機関の指導体制については、事業の全面的指導は農業機械化促進対策指導本部設置要項に依り県が責任を持ち、作付体系と耕種設計は農事試験場が中心となって作成された設計に基いて作業を進める。
現場作業の推進は大垣市農業改良普及員が担当し、作業実施中に発生する技術的問題の処理等は岐阜県農事試験場、農協営農組合代表者で木曜会を組織し毎週一回定期的に会合し当面の問題処理と事業の円滑な推進を図って居る。
加入農家131戸の内26戸は全所有面積を営農組合に経営を任せて居る。
請負耕作面積は全部で51町2反の水田で是を僅か8名で共同で経営して居る。一人平均6町4反となって居る。
此の8人の青年達を基幹要員と呼んで居る。8名は全部農機具機械の取扱いの専問で其の運転から修理整備改良迄やって居る。即ち水田の耕起地均、播種施肥除草薬剤散布等総て大型機械でやって屋るが特に播種機は世界16ケ国から是を取寄せ試験したが水稲の直播にはあまく行かなかったが農業機械化促進対策指導本部と8人の基幹要員と共に研究に研究を重ねこれを改良した結果今や日本唯一の正条直播機として考案され現在使用中で機械一台で一日3反5畝の播種が出来る。
次は稲の収獲であるがこれは50馬力の大型コンパイントラクターでやって居る。
苅取られた苅稲は自動的に其のトラクター内で脱穀され、わらは二-三寸に刻まれて苅取られた後の水田にばらまかれて基肥として鋤込まれるようになって居る此の作業を一反止の2時間でやってしまう斯くして八人の機械化営農組合では省力生産技術の工夫に依り普通の稲作の所要労力の約五分の一に短縮して居る。
8人の基幹要員の身分保証について
8人の基幹要員は月給制で月25日の就労日数を基準として基本給月75弗と技術手当として16弗67仙から25弗迄を毎月支給され尚残業の場合は残業手当も支給される。斯かる人件費は総て農協の特別会計から出て居るが農協職員なみの身分保証を受けている。
反当配分金について
1966年度は反当
54$49¢宛支払い済み
1967年度は反当
75$の配分予定
8名が毎年毎年機械使用の熟練と農機具の改良に依り作業能率があがることに依り反当配分金も多くなる。
全所有地を営農組合に請負いせしめた26戸の農家の営農組合に加入前と現在との就業状態の変化を示すと次の通り
農業従事者数は男女合計して29人は減ったが其の減った分は固定した月給取が15人も多くなり尚残りの人々はブロイラー養鶏と其の他の事業に転業した、転業した29人は夫々賃銀収入や事業収入があるけれ共其の他に水田の仕事はやらなくとも自分の所有面積に応じて反当54$49¢の配当金もあるので総所得額から見た場合非常に多くなって居る。
尚農協長の話ではもっと農家が転業しもっと農家戸数が減り一戸当りの経営面積が大きくなり総て機械化しなければ今後の農業は立って行けないと話して居られた。
機械化営農組合組織化の動機についてどのような動機でこのように51町2反と云う広い面積を一つに纏め131戸の農家がこれに参加することが出来たか此の理由は単純ではないが外部からの影響として大垣市、岐阜市、名古屋市の三都市の商工業の発達と其の経済進展に依り農家の人々が吸収されたことゝ其の賃金もどんどん高騰していった。
一方農家側から見た場合は農耕労務は雇用することが出来ない程少くなった。
然かも農耕労務賃銀は天井知らずに値上がりして其の反面、政府の米買上価格では採算が取れないこと即ち労務賃銀は高いし高くしても頼まれる労務者がおらない。
農家の内には一体私達の水田は誰がやるかとなやみ悶へた農家も沢山居ったようである。そうかと云って土地だけは手放し度くないし耕作は他人に任せ自分は他の有利な現金収入の仕事に就き度いと云う事情もあったようである。
色々と人に依って理由は異るけれども全般的に機械化することに依って高い労務賃金を省き米の生産費を安くし度いと云うことは全農家に強まって居ったと云う。
次は又機械化へふみ切るタイミングが良かったことである即ち1962年迄に農地の基盤整備も済まし干拓も終って1963年1月岐阜県庁から機械化営農実験部落に指定すると云う話を持ちかけられたことであった。
それで機械化営農組合を組織するかしないかについて大垣南農協の関係部落内で何回も会合が持たれ非常に論議が交わされたが結局其の態勢は機械化にふみ切ることを皆んなが賛成したからである。