なんじょうデジタルアーカイブ Nanjo Digital Archives

亡び行く作物と伸び悩みの作物 馬天 普天間善徳

私は戦前佐敷村の各種の統計資料を集めて持って居たが沖縄戦のため総てを焼失された。終戦後も誰かが持って居ることと思いさがして見たが思うように整えることが出来ませんでした。只自分の記憶に残って居る分と糖業い報からの資料に依って其の憶い出の一端を書き残したいと考えます。
扨て世界の化学や工業の進歩又は貿易の自由化や政府の農政等に依り農業の様相も色々と変って来ました。先ず亡び去った工芸作物としてチヨ麻糸芭蕉桑等があるがチヨ麻は今から50年前迄馬天の漁業者が繊維を取るため畑に栽培されて居た。糸芭蕉はあの涼しい芭蕉布の原料として屋敷内や山手の谷聞にも栽培され、桑は養蚕家に依って屋敷内や畑等にも栽培されて居た。それで家庭工業として機繊や製糸業等も盛んに行われたが是等の工芸作物は戦後の化学繊維の輸入テトロンやナイロンの前には生産費で立ち打ちが出来ずとうとう亡んでいった。戦前クダグシを持ったことのあるお婆あさん方や養蚕経験のある叔母様達には大変名残り惜しい事でありましょう。
食糧作物ではタピオカ、キヤッサバ(木芋)、田芋、里芋、山芋、小麦、大麦、唐蔗(トウノチン)、トウモロコシ、大豆等が戦前戦後と通じて盛んに栽培されて居た。特に大豆は豆腐の原料として村内で毎年100町歩内外栽培され其の脱穀も共同作業でクルマボーを使用され、男性的の悦穀作業であったが是等の作物は殆んど栽培されないようになった。

蔬菜園芸
昭和7年馬天に(ツ)園芸出荷組合(組合長故新川器定)昭和9年富祖崎に「フ」園芸出荷組合(組合長仲村政安)昭和9年佐敷と兼久に(サ)園芸出荷組合(組合長故与那嶺幸得)、以上の三ケ組合が創立され組合も順調に成長し毎年々トマト、キャベツ、人参、冬瓜、里芋茄子等を日本に出荷し好成績を納めて居た、日本は冬は余りに気温が低く露地では其の栽培に不適だったが沖縄は冬の気温に恵まれ天祐的の出荷組合であったと云えます。甘藷は戦前から村内では其の作付面積も他作物に比し一番多く毎年延面積で300町歩の内外も栽培されて居た其の収量も坪当平均9キロも取れた。芋は村民の主食で芋皮と葉は2,000頭の豚の飼料に当てられ茎は山羊の飼料で捨てるものは全然なく極めて重宝な作物であった。

水稲
佐敷村の水田面積は戦前は16町であったが戦後の食糧不足に悩された村民は55町歩位まで開田拡張されたが4~5年前からの甘蔗作ブームで折角汗水流して開田された水田も甘蔗畑に変っていった。今や私達が村内の農耕地を巡っても甘藷畑や水稲が却々見当たらず戦前の思影は全くなくなった。甘藷は酉暦1605年野国総官(芋大主)が支那福建省から沖縄に持って来られてから今迄住民を餓死から守護してもらったが自由貿易と安い外国米の輸入に依り沖縄住民の主食は米食に一変し芋に終止符を打った感じがします。是で野国総官も責任を果し済みで天国で喜んで御休心なさって居られるでしょう。

甘蔗
戦前佐敷村には43の畜力共同製糖物と字新里に30屯の動力共同製糖工場(組合長新里善助)が一つあった。そして毎年黒糖が一万丁余り製造され其の外西原工場にも五千屯の原料が搬入された畜力製糖物の原料の圧搾には殆んど馬や牛を利用し其のため村内には350頭位の馬と100頭内外の牛が飼養されて居た。
尚馬天には三ケ所に物産税査所指定の砂糖樽製造工場も(城間清八、玉寄兼四、玉寄松)もあったが黒糖容器も紙袋に変ったので不要なものとなった、現在甘蔗作は面積も生産高も戦前の二倍以上になったが是丈け発達したのも専ら日本政府の特恵保護措置に依るものであるが近年第二次、第三次産業の発展に伴い働力不足は毎年毎年、深刻になり生活水準は向上し賃金は上昇する生産費も毎年毎年高くなることを予想するが果して是に伴い原料代がいくらあがるか或は又農業構造改善し蔗作を機械化することに依り生産費をいくら下げ得るか?蔗作は伸んだけれどももうけるための蔗作にするには色々伸び悩みがありましよう。
 参考のためにハワイ、台湾、沖縄の労務賃金と原料代を比較して見ますと

甘蔗
産地  一日の労務賃金  屯当原料代   備考
ハワイ  25弗      13弗84仙 壮男賄無しの賃金とする
沖縄   3弗       16弗25仙   〃
台湾   50弗      4弗89仙   〃

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大分類 テキスト
資料コード 008435
内容コード G000000419-0004
資料群 旧佐敷町(佐敷村)広報
資料グループ 広報さしき 第8号(1966年8月)
ページ 2
年代区分 1960年代
キーワード 広報
場所 佐敷
発行年月日 1966/08/10
公開日