なんじょうデジタルアーカイブ Nanjo Digital Archives

生産高4万195トン 作年の74%増産 農協の座談会から

キビの搬入をすんで

空前の増産録記
沖縄の糖業史上、キビ搬入、キビ値の値上がり、本土政府の砂糖買い上げで、あれほど大きな問題をまきおこした今年の糖業問題も6月8日のキビ搬入を完了して一殿落としたところで、もう二ヶ月余を経た。戦後の沖縄の糖業史をふり返った場合、今回ほど、あらゆる面に明暗がさくそうして波乱を呼んだ年はなく、いつまでもわれわれの脳裏に強く印像づけられることと思う。第一に特筆されるのは沖縄全体の産糖高が実に30万トン近に達したということである。
この数字は戦前の最高12万トン戦後最高の17万トンを大きく引きはなして文字どおり、沖縄の糖業史上空前の増産記録を達成した。これは作付面積が増大したのはもとより、最好調の気象条件にめぐまれて単位収量が多くなり、同時に歩どまりの向上がもとになったためであるといわれる。
ここで佐敷村農協の記録から、中部、琉糖、第一、村内各製糖へ出された佐敷村のキビの総生産高は4万195トン800キロとなっていて、昨年の2万3,128トンに対して実に74%の増産になっている。この生産高に対して支払われたキビ代金はトン当り14ドル68セント(ブリクスにより格差額を含む)で58万9,790ドル18セントキビの値下りで昨年25ドル39セントから10ドル70セントも値下りして生産者に不安を与えたが、しかしなんと云っても、沖縄の農家経済の大きな柱となっていて、わが佐敷村においてもこれだけの収入をあげる農作物は今のところキビをおいて外にないことを思えば、キビの生産価値の重要性を再認識しなければならないと思う。
製糖期もすんで7月の或る日のこと、村農協事務所で各製糖会社の指導員、キビ出しで特に苦労した二人の区長(原料委員)が集ったことがあった。それに組合長、専務も加わってキピ搬入をすんでの憶い出の苦労話しがはじまった。筆舌につくしがたい精神的肉体的な苦労も済んでしまえば、いいようのない感慨で、なつかしい憶い出になってくる。ここで集まった人々の話の中から“佐敷村のキビ搬入をおわって”をまとめてみた。

戦争がすんだような気持
今期のキビ搬入をすんで或る原料委員は「戦争がすんだような気持だ、大東亜戦争から生き残ったような気持なんだ」と言った。指導員も、原料委員も、当時の苦労も今から話してみれば、笑い話のようになるが、沖縄のコドバでいう「ヤクバリ」だったという。
朝は自分で起きるよりも伝票の請求にくる人たちに起こされ「毎日7,8人の人たちが押しかけてきて問答をして常会のような風景だったという。3月に入ってもいくらキビを出してもキビはへっていく様子はなく、搬入伝票の配付も間が長くなると人々はさわぎ出すようになって、指導委員や原料委員たちは好きな人、親せきの人へ票をまわしているという誤解のことばを受け、心にもないような「いやみ」、「かげ口」をきぐようになって道を通ることが苦痛になってきた。例年なら、3月の末には製糖期もすんでいるのに、それが4月もすぎ、5月もすぎて6月に入ってまでキビが残ったのだからその間の農家の「あせり」も無理はなかったがそれにもまして農家と工場の間に立った人たちの苦労はちょっと今からでは理解もできないことだと話していた。今年のできごとは昨年から考えると想像もできないことだが、なぜそのような事態がおこったのだろうか?これは佐敷村のみではなく全島的なことではあったが、指導員たちの話では、今年のキビ生産の予想高の立て方は①昨年の30%の増産を見込んだ②戦前の最高生産高の1万5千トン(昭和13年)の二倍を見込んだ。ところが収穫してみると、実に74%の増産になっていたのである。
生産高の予想が狂ったのは段あたり収量が豊作で多くなかったこと、それに農家から作付面積を実際よりも少なく報告したこと、たとえば150坪の作付面積を100坪と報告したことが全体からみると相当のひらきがもできたことがあげられている。さらに、小谷区などは80%が琉球製糖に依存していて8月31日に会社はキビ搬入契約を打ち切り、およそ千トンの末契約ができていた。これまで毎年各製糖会社では、キビのうばい会いであったし、会社側は未契約のキビに対しても「無手付奨励金」を出して契約はしない方がよいという観念を与え、契約意慾を失わしめて、予想以上に未契約のキビがでたことはキビの生産高の予想を大きく狂わせた。キビは毎日出荷されても村全体からみるとキビはなかなかへっていくように見えない。農協、村当局、村議会でもその実情を憂うるようになって三月はじめに各会社、原料委員、農協村職員がキビの残高調査をした。

3月で58%の搬入
3月の末になると農協で記録されたキビの搬入高は昨年の総生産高の2万3千トンに達したがそれでもキビはいつ果てるともなく42%相当量がのこされていた。
その頃、沖縄産糖の本土政府による60%買い上げで、全島に大きな不安をあたえて農家が残るキビの消化でさわぎ出したのである。契約された搬入伝票は順調に配付されたが、農協を通して会社と契約されたキビの量は、中部製糖1万5204トン、琉球製糖8434トン、第一製糖5026トン計2万8703トンだった。
そして未契約の1万1千余トンのキビをどのように消化していくかが深刻な問題となってきた。
原料担当の指導員は区長からは感情的にまでなるように伝票をせがまれるし、会社は伝票はくれないし、泣くに泣けない立場に追いこまれた。いくら原料委員がキビ出荷で心配しないでもいい「必ずその中に伝票がくばられる」とたのみこむようにいってもいきり立った人々はどうしても納得してくれない状態だった。4,5日に1回は各区へ何枚というように伝票がくばられたが、それが予定より少くなると区長の心は暗くなった。待ちに待ってもらっていた票が配れないからであった。或る指導員は伝票を原料委員に配ばるとき、その人が家にいるかいないか子供をつかってたしかめてから居たら子供をつかってくばっていたという。農家も伝票配付の日はよくわかるようになって道から通ると必ず呼びとめられて伝票のことをたずねられた。まったく悪いことをして後をつけられている人のようなものだった。例年なら、配票は頼むように配っていたのがまったく今年は逆になっていた。

特効薬はなかった
農家では組合長、専務が四、五日ごとに会社にかけ合いに行った。
しかしどんなに話しても頼みこんでもどうにもならなかった。
ある区長はいった、「今年はキビ搬入では特効薬はなかった」と、印象的ないいぶりだった。そんなとき、農家では原料委員がキビ代を持っていっても喜ばれるどころか、逆に伝票はどうなったかとたずねられるような始末で、金よりも伝票が先だった。このような、状態の中で、時には臨時伝票が出されることがあった。朝、伝票を受けると晩にはキビを出すという問答なしのキビ出しだ。それでも、キビが出された。梅雨で雨期に入るようになって50日ばかり雨がつづいたが、時期を失ってはキビをすてなければならない「背水の陣」で雨ふりの中のキビ出しがつづいた。連日の雨でつける着がえもなくなってしまって農協にカッパを買いにきた人から雨ふりの中のキビ出しで泣くに泣けないすてばちな言葉をきくと胸がえぐられるような苦しい体験をしたと話していた。
こうして5月もキビ出しがずっと続けられて各会社からキビ搬入の終了の日を第一製糖6月5日、琉球製糖6月6日、中部製糖6月8日を発表された。それからがまた大へんだった。
佐敷には6月に入っても相当のキビが残っていたのである。農協では婦人青年部の共同作業班を動員してキビ出しの応援に全力をあげた。そのときになると、平日のトラック4台の出荷が9台にまでなった。小谷では6月に入ってから一日に60戸の農家で9台のキビを出した。これは、伊原、新里もでも同様であった。まったく雨の中をキビを出す人もトラックの運転手も超人的な働きでやっと6月8日のシメ切りまでに佐敷村のキビ搬入は終わった。ここで最後に忘れてならないのは、村内のキビの消化で、大きなたすけになったのは、村内の二つの工場で、とりわけ、5千800トンの中、5千トンを受け入れた馬天製糖が村内のキビの消化を助けたことだった。こうしてキビ搬入はおわり大きな、反省と農家と関係者に与えながら次期のキビ搬入をあと三カ月後に迎えようとしている。

作付面積の正しい報告と契約
ここで最後にキビ作農家が指導員原料委員、農協などとともに考え、ぜひ守っていかねばならないことは、キビの作付面積を正しく報告してそれを全部契約することだと強く要望されている。

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大分類 テキスト
資料コード 008435
内容コード G000000416-0003
資料群 旧佐敷町(佐敷村)広報
資料グループ 広報さしき 第5号(1965年8月)
ページ 2
年代区分 1960年代
キーワード 広報
場所 佐敷
発行年月日 1965/08/15
公開日