かねて建設工事中であった慰霊碑が完成して、その除幕式と慰霊祭が5月2日午後1時半から佐敷小学校校庭の碑前で、遺家族千余人来賓、村民など多数が参列して、荘厳かつ盛大に挙行された。
当日は除幕式後慰霊祭には、行政主席代理瀬長副主席、長嶺立法院議長、金城遺族連合会長、上江洲与那原地区警察署長、渡名喜小学校長、山城中学校長、玉寄村婦人会長、瀬底元軍人生存者代表、中学校生徒代表、一般参列者等多数が今は亡き霊を弔い、ありし日の思い出に涙を新たにして、焼香、英霊の冥福を祈った。
式終了後遺家族の慰安会で長嶺立法院議長から遺家族へ激励の言葉があり、フォーシスターズ伊波さん姉妹による慰安演劇があった。また元軍人生存者瀬底正八氏外414人から、この機会に、かつての戦野で、苦楽を共にして、或は北満支の荒野に、或は南冥の孤島に、また郷土沖縄の防衛のために、酷寒炎暑をおかし、悪疫窮乏と戦い、あらゆる犠牲を忍び、苦難に耐え、その最後の日まで祖国日本の繁栄を興隆を祈って身を国家に捧げて散華した戦友の霊を慰め冥福を祈るために例祭用幟一りゅうと幕と香爐の奉納があった。
沖縄水産株式会社社長洲鎌清吉氏(元軍人生存者一同から各一対の花輪の供花があり、村遺族会、村農業協同組会からも各一りゅう宛の例祭用幟の奉納があった。
なお同ひには日露戦争以来今次大東亜戦争までの戦没者、軍人、軍属、戦闘協力者など、日露戦の戦死者故海軍一等水兵知花清一氏外1181柱の英霊が合祭されている。
除幕式の村長のあいさつ
数年前から村議会や(村の集会、公会などの席上や村民の中から、度々戦前の忠魂碑を再建すべきだとの議論が交わされていました。
村内には津波古、小谷、佐敷、手登根、伊原、冨祖崎の各字はすでに慰霊塔を建立して、毎年の例祭で、護国の英霊を弔っているが、他の新里、兼久、屋比久、外間、仲伊保の五か字はまだ建立されていないので、村を一つにした忠魂碑(仮称)を再建して毎年の例祭を執行して戦没者の霊を弔うべきであるとの機運が熟して村民の世論となっていた矢先、たまたま63年6月3日の前村遺族会会長送別会の席上でも、このことが話題に上り、早速動議が出て、採り上げられたので、遺族会では元在郷軍人分会、傷痍軍人会支部によびかけ協力を得て6月10日付けで、以上の三者から慰霊碑再建方陳情文書が、村長宛に提出があり、村長は6月27日から開会の第94回定例議会に議会の意思表示を求めたところ、時宜を得た立派な計画だと全議員が賛成、慰霊碑建立の計画を進めることになり、9月5日に議会の経済工務委員といっしょに中南部各地の慰霊碑や塔などを視察して規模、経費、建立場所などを検討協議して元忠魂碑跡(佐敷小学校校地内)に建立することに決めて設計などを、その専門家に依頼して、12月19日開会の第97回定例議会に慰霊碑の予算等を計上提案したところ全会一致で原案通り可決し、12月29日に請負指名競争入札に付して、与那嶺正行氏が、落札して早速着工し、碑名を村内から広く募集するとともに、その道の専門家や沖縄遺族連合会など、各方面の意見などを検討して1月4日碑名を慰霊碑と決定して、碑銘の揮毫を現立法院議員神谷正雄氏が、碑の注文に鹿児島に出張して本土産の上質石材を使用して作製させ、1月23日に着荷、2月8日に荘厳な立派な碑が完成しまして、本日までに日露戦争以来去った太平洋戦争までの、戦没者故海軍一等水兵知花清一氏外1181柱の護国の英霊が神鎮ります慰霊碑の除幕式と合同慰需祭の式典を執行することになりましたのは、これひとえに村民各位や開係各方面のご指導、ご協力の賜だと感謝申し上げ、慰霊碑建立までの経緯を申し述べましておん礼の言葉に代えさせていただきます。
1964年5月2日 佐敷村長 当真嗣善