私たちの知念村には、独特の風土と歴史の中ではぐくまれてきた文化財が数多く残っております。このような地域のもっている歴史資源と伝統文化は、私たち村民一人びとりの共有の財産であります。
斎場御獄、御大陽御川、知念森城趾などの巡礼地をはじめ、イザイホで有名な久高島、アマキヨ時代の住居を裏付ける多くの貝づか群など各種の史跡や遺蹟が豊富に存在します。私たちは、この財産を新しい時代と地域社会をつくりあげてゆくための創造の源泉とするとともに、次の世代に受けついでいかねばなりません。特に今回、県教育庁文化課により城 (グシク)調査が行なわれ、知念村の城の実態が浮き彫りにされ、知念城趾を始め、志喜屋城、 ナーワンダー城、安座真城、知名森城、そして久高島のティミ城とグシクの名の付くものが六つも存在したのです。そこで、村文化財保護委員長の新垣源勇先生に知念村の城(グシク) について解説していただきました。
知念村のグシク
沖縄にはたくさんのグシクがあります。大体島尻六〇、中頭四〇、国頭二〇、離島十五で百数十ヶ所もありますが特に石灰岩地方の知念、玉城、具志頭方面にその分布が集中しています。
沖縄のグシクは城という字を当ててありますが日本の城の概念からはずれるグシクもたくさんあります。首里城のような立派な王宮もあり、中城城、勝連城、座喜味城のような按司の住居であった攻防の争があったグシクもありますがその外に知念森城のような拝所となったグシクもあり久高島のテミグスクや久手堅の女ナワンダーのような自然石を積みあげた城壁に囲まれたせまいグシクもあります。御嶽の中のグシクがありグシクの中に御嶽があったりしますが石で囲まれた拝所であることは 共通しています。
知念城
知念城は琉球最古の歌謡集『おもろさうし』の中に知念森城とうたわれ巻十九はほとんど知念森城の歌謡であり十七首も出ています。城は自然石をそのまま積み上げた上の城とその下方に切石積みの城壁に二つの拱門を備えた部分と二つの城からなっています。上の古城は雑木うっそうとして自然石の石垣は低いが高い森の上に築かれ森城の名にふさわしい。この古城は天孫氏が築いたと伝えられ、代々の知念按司の居城でありました。明治三十六年まで知念間切の番所があったところで瓦のかけらが堆積し、フル便所の跡や池の跡も判然としています。この城は拝所としての要素が濃厚で五月、六月のウマチーにノロ以下各門中の神人だちの拝みがあり東廻いの巡拝の聖地の一つでもあります。尚貞王の康照十二年(一八七三)に「羽地仕置」 によって廃止されるまで王の御親拝のあったところでもあります。 琉球の正史『中山世鑑』巻一琉球開闢之事条に七御嶽のうち三番目につくりあげられた御 嶽とされている。この城が按司の城となるまえは神降りの由緒をもつところでありました。『おもろさうし』の中に
むかしはじめかうのふし ちゑねんもりぐすく かみおれはじめのぐすく ちゑねんもりぐすく あまみきよが のだてはじめのぐすく
きこへたうやまがふし ちゑねんもりぐすく たらのふね ここらよるぐすく ぢやくにもりぐすく
中国の船がたくさん寄港したとあるからこの海岸一帯は尚巴志の中国貿易の全盛時代に唐船の寄りついた港があったことはまちがいないでしょう。『球陽』の尚敬王十七年の条に「昔より知念城内に一殿を修造し世々重修して行礼の所となす 、今年風のために壊れしによ り具殿を裁す」とありこの殿は 度々修復されたものとおもわれます。知念城内の拝殿は尚貞王代に瓦葺に改められた、黒い瓦片は当時のものとおもわれます。
ナーワンダ
ナーワンダーはサィハ御嶽の北西に接する地に二つの大きな岩がある男ナーワンダーと女ナーワンダーであるがなぜイキガイナグの名をつけたか不明である。ナーワンダーの名もいろいろの考え方があってお経の南無阿弥陀仏からきているとか、ナーバ(きのこ)に似た岩だからだろうという方もいます。この女ナーワンダが城であるからおもしろい。久手堅の古老の伝承によると男ナーワンダと女ナーワンダとイクサかあったとか、ナーワンダーが攻められたとき男ナワンダへ布をひっぱって食糧を流してやったといわれ、
ヤチンヤカランナーワンダ
チッチンチラランナーワンダ
ともうたわれている。
男ナーワンダの岩はよく目についたがこの女ナーワンダの城はあまり知られていませんでした。 今度ようやく県教育委員会の文化財保護委員会でグスク分布調査をすることになり、雑木の中にかくれていた城がその姿を現すようになってきました。平板測量をすることになり、すすきを切り雑木を伐採してみると、自然石の石積みの城壁が見られるようになりました。今まで草の中にねむっていたこの城の調査で多くの末知の問題を解く資料が得られるものと期待しています。
安座真城
村民の多くの方が安座真城がどこにあるかわからない方が多いとおもいます。ワンヂン原の北の安座真部落の登りつめた山の上にあります。一つの岩がグスクになっていて久手堅のナワンダの城と同時代のものではないかとおもわれます。これもグスク分布調査で測量中でまだ不明のところが多くこれ以上のことは書けません。
知名城
知名岬の小高い森が知名城で航海標識煙台の建っている所で採石のため附近の岩がなく なって昔の城の姿はすっかり消えてしまいました。知名城の下の海岸のところに「テダ御川」 があり、久高島参詣のときここで海上安全の祈願と水の補給のなされたところで東廻いの聖地であります。 『遺老説伝』(球陽外巻三)に知念村の古根大控がたいへん徳の高い人で古根大控前と呼ばれ善行を王様が嘉賞せられ内間村の女を娶らして、王の妻の一族から養子を入れられ、その要旨は知名地頭職を継授し内間大親と称した。そして家を知名城に構へ基れをして之れを守らしめて王の東り廻い(東専)のときのしばらく休む所となった。しかし佐敷の知名由が盗民のため稲をかられ、暗夜に射死された。尚豊王のときその屋は知念城内に移された。これが後の知念御殿である。このような説話がのっています。どの位置に内間大親の家屋が建っていたか不明であります。
ティミグスク
久高島の西海岸のところに自然石を積み、城のようにみえるこんもりした茂みがみえます。 島の人たちはチミグスクという。石を積んであるからチミグスクだと説明する人もいます。 また灯(テー)、たいまつで勝連城あたりに合図をしたのろし台ではなかったかという人もいます。いづれにしても久高島にグスクがあるのは今後の調査にまつところが多い。
志喜屋城
志喜屋の公民館の後道路を挟んで上志喜屋(カンチャ)側にあるグスクで古い墓があり切石 積みの石垣もそのまま残っていて今後の調査を要するところであります。お嶽に相当するところではないかとおもわれます。
色ゝなグスクが知念村にもあることがおわかりになったとおもいます。グスクと、城どう 考えたらよいでしょうか。
(文責新垣源勇)
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大分類 | テキスト |
資料コード | 008534 |
内容コード | G000001346-0001 |
資料群 | 旧知念村広報 |
資料グループ | 広報ちねん 第13号(1981年3月) |
ページ | 2 |
年代区分 | 1980年代 |
キーワード | 広報 |
場所 | 知念 |
発行年月日 | 1981/02/25 |
公開日 | ー |